第1章 紫の装丁が施された本
カルロヴァ通りにある古本屋で、私は、本の背が並ぶ書棚のまえを行ったり来たりしながら、りのショーウインドー越しに時折外を見た。雪がはげしく降っていた。私は本を手にしたまま、聖サルヴァトーレ教会の壁のまえで雪が渦巻いていく様子を硝子越しに注視していた。視線を本に戻し、本の香りをすっと吸い込みながら、ページというページに眼をやり、文章の断片を読みふけった。文脈から抽出されたせいだろうか、断片は不可思議ない光を放っていた。とくに急いでいるわけではなかったので、夢のなかで寝息を立てているような、ページがめくられる音を耳にしながら、古書の心地よい香りがただよう、静かで暖かい場所に留まっていられる幸せをみしめていた。の吹雪のなかに足を踏み入れる必要がなかったのは喜ばしいことだった。
書棚に並べられた本の背の波をゆっくりと指で触れていくと、国家経済を論じたフランス語のぶあつい分冊と『牛と馬の助産術』という書名の背ががれかかっている本のあいだにできた暗いみに、すっと指が入り込んでしまった。その奥で指が触れたのは、とてつもなく滑らかな本の背だった。濃いのビロードで装丁された本を思い切って書棚の奥から取り出してみたものの、本には、書名も、著者名も記されていなかった。開いてみると、そこには、見たことのない文字が印字されていた。あまり深く考えることなく、ページをめくったり、見返しのアラベスクのねじった文様をしばらく眺めていると、文様は雪の渦のように思えてきた。私は本を閉じ、二冊の学術書のあいだの、元あった場所に戻した。二冊の本は、一息つこうとしていたのか、本が抜かれて生じた隙間をすでに埋めていた。奥にある書棚に向かおうとしたが、私はすぐに立ち止まってを返し、もういちど菫色のビロードの本に手を伸ばし、本の列から斜めにすこし突き出た本をしばし触っていた。いつものように、本の列を平らにし、ほかの本を手に取って、吹雪のなか、小路を通って家路にくのはたやすいことだった。だが、そういうとき、なにか特別なことが起きはしない。想い出すこともなければ、忘れてしまうこともない。けれども、本に印刷された文字はこの世のものではないことに私は気がついてしまった。不穏でありながらも魅力的な息吹を発している裂け目を見過ごしてしまい、新しい結びつきをぐ網を放置するのはたやすいことだった。このような出会いは初めてではなかった。どこかに通じているはずの半開きになっている扉のなかに足を踏み入れずに通り過ぎてしまったことは、これまでに何度もあったにちがいない。見知らぬ建物のひんやりとする廊下や中庭、あるいは街はずれのどこかで。この世の境界は遠くにあるわけでも、地平線や深淵で広がっているわけでもなく、ごく身近な場所でかすかな光をそっと放っている。私たちが接している空間のはずれの暗がりのどこかにあるはずだが、自分では意識しないものの、つねに眼のふちでしか世界を見ていない私たちはほかの世界を見過ごしている。私たちが歩いているのは岸辺や原生林のはずれでしかなく、その私たちの振る舞いが隠れた空間を含む全体から浮いてしまっているので、隠れた空間にひそむ闇の生をかえって目立たせているかのようだ。けれども、波のざわめきや動物の甲高い声といった、私たちの言葉に不安そうに連れ添っているもの(また、それらの音が生まれる謎の場所)に私たちが気づくことはなく、見知らぬ土地の片隅できらめく宝石に気づくこともない。というのも、たいていの場合、私たちが一生のあいだに道を外れることはいちどたりともないのだから。はたして、私たちがたどりつくはずのジャングルの黄金の寺院はどのようなものなのだろうか? 私たちが戦うのは、どういった動物で、どのような化け物なのか? 計画や目的を忘れさせてくれる島は、どういうものだろうか? そんなことを考えたのは、雪の幻影が硝子の向こう側で踊る姿に魅了されたせいかもしれない。あるいは、境界を越えてしまうことに昔から及び腰になり、恐怖心に打ち勝つことなどなく、習慣的な沈黙に甘んじてしまうという、ここ数年敗北を重ねてきた運命に対する反発かもしれなかったが、私は、本を手に取ってふたたびページを開き、丸味を帯びながらも先端がっている、よそよそしい文字を眺めた。文字の形は、完全に閉じられているのか、あるいは閉じつつあるのか、して締めつけられ、髪が逆立っているようにも見えた。外から内に入り込んだ尖ったで力強く剝がされている文字があったかと思うと、内からの圧力でパンパンになり丸く膨らんでいるように見える文字もあった。支払いを済ませると、私は本をポケットに入れ、店をあとにした。外はもうすっかり暗くなっていて、街灯の光に照らされた雪が舞っていた。
帰宅してから、窓に面した机のランプを点けて腰かけると、私は本を舐めるようにじっくりと見た。ゆっくりページをめくると、ランプが作る光の円のなか、暗い水溜りから漂流してきたかのように、ページが、一ページ、一ページと姿を現した。すこし尖った丸い文字の列が、魔法のネックレスのチェーンのようにページに横たわっていた。ページに浮かび上がる文字は息吹を発し、そこには、ジャングルや茫洋としながらも錯綜する都市の暗い物語がいていた。しばらくすると、物語のイメージが閃光を放ったように思えた。奇妙な異端者の手に負えない弟子の邪悪な顔、夜の宮殿の奥からそっと忍び寄る獣の足音、ゆったりとした絹地にシルエットのように浮かび上がる不安そうな手の動き、庭園の茂みにひっそりとたたずむの破損した石片。そのうち、本にはエッチングの挿絵が何枚かあることに気がついた。一枚目の挿絵は巨大な広場を映し出し、周りにはなにもなかった。夢想的なシンメトリーが広場を支配し、をおぼえるほど傾斜しているチェスボードのが遠近法によって描かれていた。広場の中央にはオベリスクがえていて、土台には表面が滑らかな多面体の石が置かれていた。オベリスクの両側には三段の噴水が置かれていて、大皿から大皿へ水がこぼれ、水面に映る様子は堅牢で不動な物体という印象を呼び起こしていた。挿絵では、広場の三方だけが見ることができ、規則正しく段が積み上げられた階段や単調な高い柱列が並ぶ宮殿正面の建物に囲まれていた。鋭い、短い影だったので、どこか南方の、灼熱の夏の昼下がりの光景であることがわかった。初めのうち、広場にはひとけがないと思っていたが、しばらくして、幾人かの小さな人物がいるのに気づいた。巨大建造物の大きさとは較べられないほどに小さい人物の輪郭は、宮殿両脇のの影を映す濃い陰影に埋もれていた。左側の宮殿の壁に接する大理石には、若い男が手を広げて坐っていた。虎が男に覆いかぶさり、屈強な前肢で男をつかみ、首に嚙みついていた。傷口から噴き出た血は素朴な筆致で描かれ、開いたのようだった。広場の反対側にある宮殿の柱の土台付近では、何人かの男性が心地よさそうにぶらぶら歩いており、パイプをくゆらせたり、トランプで遊んだりしていた。広場の反対側で起きている出来事を知らずにいるのか、あるいは、まったく気にも留めていない様子だった。そのすこし先では、男女が柱のあいだに立っていて、男は、腕を動かしながら、太陽が照りつける広場のなにもない空間の先にいる人喰い虎を指差し、女は、遠くにある柱廊ののほうに手を合わせていた。もう一枚の銅版画には、泥まみれの海底にある真珠貝の解剖学的な断面図が描かれ、三枚目の挿絵には、ベルト状の伝動装置や、歯車とパーツが複雑に組み合わさった機械などが描かれ、後者の機械の内側には楔がついていて陰影が入念に描かれていた。
窓に面した机に本を開いたまま置き、私は横になった。目を閉じても、丸く尖った文字が闇のなかゆらゆらと揺れ動いていた。文字は身をよじり、のたうちまわり、街灯の光に照らし出されて、回転していく雪の渦と化していた。自分の部屋に持ち込んだ、まるで鶏の黒い卵のような、見たことも聞いたこともないものに、私は不安をおぼえた。だが、自分にこう言い聞かせることにした。そんな心配は無用にちがいない、私たちの世界に入り込み、これほどまでに不安を駆りたてるこの本は、知らないあいだに、親しみすらおぼえる既知の世界となり、その世界の液に吸収されてしまうことになるかもしれない、と。
真夜中に眠りから覚め、目を開けると、緑がかった淡い光が本の上で揺らめいていた。立ち上がって、机に駆け寄ってみると、光を放っていたのは本のページそのものだった。その淡い光を浴びた雪片は、緑味を帯びながら、ゆっくりと屋外の窓枠に積もりつつあった。
(阿部賢一訳、河出文庫、2024年より)
©Michal Ajvaz, 2005.