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エストニアと日本: 19世紀から21世紀はじめまでの関係

Estonia and Japan: Relations from the 19th century to the early 21st century
<a href="https://eulitfest.jp/year2024/speakers/entry-285.html">エネ・セラルト</a>

エネ・セラルトの『エストニアと日本― 19世紀から21世紀はじめまでの関係』(Tartu, 2024年)は、日本や日本人との関係という観点からエストニアの長い歴史を解きほぐすという方法で、これまで知られていなかったエストニアの人々の姿を描きだすユニークな試みになっています。早くも20世紀初頭にエストニアから日本にやって来た人々が、日本の何に関心を抱き、それを故郷の人々にどう伝えたのか。なぜ、戦間期に何人もの日本の軍人がエストニアを訪れたのか。本書は、手紙や日記、文学作品、新聞記事などの豊富な資料を渉猟して得られた研究成果を、多数のイラストや写真とともにわかりやすい形で読者に紹介しています。日本人にとっては、普通のエストニア人から見た日本の姿を知ることを通して、自分たちの社会や文化について見つめ直す機会にもなるでしょう。

エストニアと日本: 19世紀から21世紀はじめまでの関係


小森 宏美 訳

 ミヘルソンは商船「トルジェンニク」号の船長(1896)、商船「バイカル」号の操舵手(1897)を務め、のちには「ムクデン」号にも乗った。この船は、主として建築資材や労働者を灯台建設のためにロシアの各港湾都市に運んだのだが、その他にもいろいろな商品を運んでウラジオストクや長崎などの極東の港を行き来した。ミヘルソンは日露戦争で戦死している。
 ミヘルソンは、日本のさまざまな生活分野に対して興味を示し、エストニアの教育と経済の発展を目的に掲げていた。単なる観察者であるだけでなく、助言者でもあった。日本で見聞きした多くのことを故郷の手本とすべく尽力したのだ。その点で彼は、彼に先立つ物書きたちとは別の次元に立った。その一つが、造船分野での呼びかけである。

 「わが故郷の船乗りたちよ、われわれの帆船に機械を持ち込もう。そして少しでも故郷の浜辺で稼ごう。そうしなければ、いずれにせよ、別の者のために働くことになるのだから。」(1896)

 彼はまた、日本の工業を称賛し、それをエストニアと比べた。「もうなんども、工業分野における日本人の素晴らしさについて話したし、そのたびにエストニアの同胞たちのことが頭に浮かび、わが国の状況と日本を比べることになったのだ」。(1896)

 ミヘルソンはエストニア人の手本として、日本人の正直さも紹介している。それは、エストニアもその地の人びとにとってもやや耳が痛いことかもしれない。

 「もし、われわれのところで、日本の店や工房のように、紙製の枠付きの壁があって、鍵のかからない建物だったら、どろぼうが何をするかわかったものではない。要領のよいひと蹴りや手のひと突きで店の扉の一つや二つすぐに破られるだろう。だが日本ではそれが起こらないのだ。そうしたあれやこれやをみていると、われわれがキリスト教徒を名乗っていることに何の意味があるのかと問いたくなる。異教徒からまだ道徳を学ぶことがあるというものだ」。(1896)

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