オランダ オランダ

日本人、50歳でオランダ語作家になる。

<a href="https://eulitfest.jp/year2024/speakers/entry-310.html">三浦 富美子</a>

©Annaleen Louwes

愛知県生まれ。2001年よりオランダ・ロッテルダム在住。エラスムス大学社会学部修士コース修了。現在はハーグ・ロッテルダム授業補習校教員および日本語教師。2023年1月にアムステルダムの出版社Van Oorschotより『Polderjapanner(干拓地の日本人)』を出版した。

日本人、50歳でオランダ語作家になる。

三浦富美子 著

あなたの経験を本にしてみませんか?

2020年秋、世界中がコロナのパンデミックに翻弄されている最中のことだった。「あなたの経験を本にしてみませんか?」オランダ語でこんなメールが突然舞い込んできた。これが日本語だったら、作家志望の一般人から金を巻き上げるのが目的の自費出版社かどこかからだと思い、即座にゴミ箱に捨てていたかもしれない。
 メールには「あなたのインタビュー記事を雑誌で拝読しました。インタビューでお話されていたオランダでの経験談、あのような話をもっと書いて本にしてみませんか?」とある。差出人は、オランダの読書人から一目置かれる老舗出版社の編集者だった。
 オランダに住んで早20年以上、広げられた大風呂敷が単なるハッタリだったり、壮麗な計画が諸事情で立ち消えになったり。そんなことにはすっかり慣れっこになっていたので、これは期待してはいけない、とまずは早まる自分の心にブレーキをかける。この話が詐欺ではなく、最終的に出版に漕ぎ着ける、に500点。途中で立ち消えになる、に3000点。落ち着け、と自分に言い聞かせ、編集者からのメールに返信した。
 数日後、ZOOMの画面越しに編集者Fさんと初めて顔を合わせた。彼女のアンテナに引っかかった雑誌に掲載されていた私のインタビューとは、こんな内容だった。
“……(日本人の友人と)オランダについてあれこれ愚痴を言ったりしていますよ。例えばオランダの義理の家族のこととか食べ物のこととか。一日に三度しかない貴重な食事の機会を、二度もチーズとパンで済ませるなんて、私には一生無理ですね。初めてオランダ人の友人たちとテルスヘリング島に休暇に行くことになった時、何をするのか楽しみにしてたんです。日本なら、観光して、美味しいものを食べて、温泉に浸かったりするでしょう。でもオランダ人の休暇は徹底的に何もしない。そこでしたのは、最悪の天気の中でひたすら歩くこと。まるで地の果てで彷徨っているような気分でした。”  (LINDA 2020年5月号掲載)
 編集者Fさん曰く、「外国人がオランダ人のことをどのように見ているのか。オランダの読者はそういうものを読みたがっている。でも、オランダは素晴らしい、オランダ最高、こんな国に住めて有難い、という賞賛一辺倒ではなくて、ネガティブな部分も含めて本音を書いて欲しい。」とのことだった。

日本語ですら本など書いたことがない。ましてやオランダ語で本を一冊書き上げるなんて、私にできるのだろうか。あのインタビュー記事は、私の間違いだらけのオランダ語をプロのライターさんが読むに堪える形に上手く整えてくれていた。何より、私はオランダ語を好きで始めたわけではなかった。この国に住む外国人として、オランダ語ができなければ一人前の大人として扱われない。二級市民の立場に甘んじるなんて我慢がならない。だからオランダ語を勉強したのだ。
 オランダ語を心から愛し、その道に精進している方もたくさんいるのに、完璧なオランダ語も書けない私が偉そうに本など書いてもいいのだろうか。そういう迷いもあった。そして頭にちらついたのは、日本のこと。外国人が日本語で本を書いていると、粗探しに余念がない意地悪な読者がちょっとした言い間違いをあげつらい、微細なミスで作品全体を貶めるような評価をする。それを思い出してゾっと震えた。言いたいことをはっきり言うオランダ人にかかれば、どんなストレートなコメントが飛んでくるのか分からない……怖ろしい。しかし、そんな私の不安をよそに、獲物を狙う編集者Fさんはこう言った。「オランダ語に関しては心配しなくていい。そこは私たちプロに任せて。私たちが読みたいのは、あなたのストーリーだから。」
 肝心なのは話の内容で、細かい部分は大船に乗ったつもりで編集に任せればよい。この言葉で、リミッターが一気に解除された。これはオランダ語の試験ではないし、誰かと比べられ点数を付けられるわけでもない。とにかくオランダの読者に向けて言いたいことが、私には山ほどある。それには自信があった。こんな千載一遇のチャンスを見逃したら、私は一生後悔する。そう直感した。

オランダ語の雲をつかむ

それからの2年間は、錆びついたオランダ語を磨き直し、ほとんど読むことの無かったオランダ語の本を読み漁り、原稿を書いては直しを繰り返した。過去20年間の自分のオランダ生活を振り返り、印象に残っている出来事や、私がどうしても伝えたいことを、ポストイットに書き出して、あれこれと並べ替え、タイプし始めた。
 いきなりオランダ語で書き出したはいいものの、文字数は思ったように増えない。自分が書き連ねたオランダ語を読み返してみても、人前に出して良い水準ではないのは自分でも分かった。まずは日本語で書いてから、オランダ語に訳した方がいいのだろうか。私の頭の中は依然として、基本的には日本語の世界だった。オランダ語でモノを言う時も、頭に考えが浮かんでからオランダ語にして口に出すまでの数秒は、いつも日本語が介在している。オランダ語をペラペラしゃべっているように見えても、その奥にはいつも日本語がいる。そしてオランダ語に置き換えられなかった言葉は、ザラザラと砂のように零れ落ちて消えていってしまうのだ。
 とはいえ、オランダ語と格闘している過程で、どうにかこうにか組み立てた不細工なプラモデルのような私のオランダ語でも、それでないと上手く表現できないものが、この20年間で私の中に育っていたことに気が付いた。やはりオランダ語で書こう。そう腹を決めてからは、酸素の薄い高山に登るような気持ちだった。日本語とオランダ語の世界を行ったり来たりしながら、モヤモヤした想念の雲をひっつかんでは活字にし、一歩一歩進む。どんなに頑張っても一日でA4半分が限界の日もあった。気分転換に近くの森で散歩をしているときも、寝ているときも、本のことが頭から離れない。地味で孤独で苦しい時間だったが、うまく言葉にできた、と思ったその瞬間には中毒性が宿っていた。人が物を書くこと、創作することに執着する気持ちが、少しずつ理解できるようになってきたのだ。
 こうして1年ほどで初稿を書き上げた。とにかく本を書くプロセス全てが初めての経験で、編集者Fさんから返事が来るまでは最後の審判を待ち望むような心地だった。自分が書いたものが全く通用しなかったらどうしよう。でも、私は、今の自分が書ける精一杯のオランダ語で、言いたいことを全てぶつけたつもりだった。これでダメなら、それが自分の能力の限界。そう思うことにした。

待つこと数か月、アムステルダムにある出版社のオフィスに呼び出しがかかった。植民地時代の栄華を誇る建物が軒を連ねる運河沿いにあるオフィス。だが、一歩中に入ると内部は質素を極めていた。会議室の本棚には、過去に出版された書籍、チェーホフ、ドストエフスキー、オランダのW.F.ヘルマンスのような錚々たる文豪たちの作品がぎっしり並んでいる。吉田兼好の『徒然草』や五味川純平の『人間の條件』など渋い日本文学の翻訳もある。私の本もあと少しでこの本棚に加えられることになるのか、と思うと畏れ多くて身震いがした。
 編集者Fさんは、繊細な言葉の端々に優しさと気遣いを感じさせる。さすが言葉を業にしている人だけある。それまで私が慣れ親しんできたガサツなオランダ語とは、雰囲気が違う。しかし、その優しい口調で、修正点を鋭く指摘されると、心にグサリと刺さった。すべての指摘は的を射ていて、作品のレベルを押し上げるには必要不可欠だ。ただ、私も五十。この歳になると他人から真正面に間違いを指摘される機会に乏しく、編集者Fさんが真綿にくるんで投げてくる剛速球のコメントに、自分が先生に叱られる子供になったようで情けなく思えた。が、こういう妙な心の障壁こそが邪魔なのだ。心は修正ペンでグサグサと刺され満身創痍だったが、帰路運河沿いを歩きながら、私は必ずこの山を登り切ってみせると自分に誓った。

出版を半年後に控えた頃、本のタイトルと表紙を決めることになった。本のタイトルは、『Polderjapanner(ポルダーヤパンナー=干拓地の日本人)』。このタイトルは、降りてきた、としか言いようがない。夜中にふと思いつき、急いでスマホのメモに打ち込んでおいた。短くて、中身を端的に表していて、他の本のタイトルとかぶらない。編集者Fさんからは即OKが出た。表紙については、これだけは絶対に避けたい、というイメージが最初からはっきりしていた。その頃、新海誠監督の『彼女と彼女の猫』のオランダ語版が書店の店頭に並んでいた。オランダ語版の表紙絵は、赤い着物を着て猫を抱いた長い黒髪の日本人女性。戦後期に描かれた日本画らしい。それは日本語版のポップなイラストとは似ても似つかない。オリエンタリズム丸出しの古風な日本人女性のステレオタイプの再生産に、私は断固加担したくなかった。そこで表紙絵は、以前からInstagramでフォローしていた日本好きのオランダ人イラストレーターのハンナさんにお願いすることにした。後日談になってしまうが、無名の著者の本なのに比較的売れたのは、ハンナさんの表紙絵のお陰だったと言ってもいい。さらにオランダの書店業団体Librisが毎年年末に開催する“装丁グランプリ”にノミネートされたことは、ぜひ付け加えておきたい。
 出版社が書店やプレスに配布する2022年秋の出版物カタログに書影と著者近影が掲載され、発売日は2023年1月中旬と決まった。半信半疑だった出版計画がいよいよ実現しそうで、でもこの一連の展開がいまだ信じ難く、幽体離脱して遠くから事の成り行きを眺めているような、そんな感覚が続いた。新年に入り、印刷所から刷り上がったばかりの本が手元に届いた。実物を見て触ってはじめて、2年前のあのメールが絵空事ではなかったことをようやく受け入れることができた。

オランダを映す鏡

発売日前後に新聞やラジオのインタビューを受けた。人前でオランダ語を話すのは相変わらず苦手なままだったので、人生最大級の緊張と背伸びの連続となった。「無名の著者でこれほどメディアで取り上げてもらえるのは珍しいですよ」と出版社の広報担当者から聞いて驚いた。無名の著者なら取材申し込みゼロ、ということも珍しくないらしい。とはいっても、実際の本の内容を評価してというよりも、単にオランダ語で書く日本人が珍しい、そして日本に興味がある人が増えているのが理由だったように思う。お陰で初版2000部が1カ月ほどで売れ、次の月には重版がかかった。
 しかし2年間ものあいだ、自分の世界に閉じ籠って心の奥を掘り下げながら書き綴った私的な文章が、出版を境に顔の見えない世間の批評の対象になる、というのは怖ろしくもあった。しばらくすると様々なメディアから書評が舞い込んできた。見ず知らずの人が私の文章の断片を切り取って好き勝手に論じているのを読んだり聞いたりして、その度にひっくり返りそうな思いだった。それにしても「オランダ人は外国人から自分たちがどう見られているかに非常に興味がある。」と言った編集者Fさんの言葉はズバリ的を射ていて、書評で取り上げられた話題のほとんどは、外国人の私がオランダ人をどう見ているか、について書いたパートだった。いや、正確に言えば、自分たちオランダ人がどう見られているか、だ。私を鏡にして、そこに映る自分たちの姿を見て、議論して、楽しんでいる。そんなパートのひとつ、自転車について書いた章を紹介したい。
Lekker fietsen(楽しく乗ろう、自転車に) 私は自転車乗りだ。少なくとも、私はそう自負していた。高校の三年間、雨の日も風の日も往復16㎞のアップダウンのある道のりを毎日自転車で通っていた。オランダに住むことになった時、この自転車乗りのパラダイスで自転車に乗れることを何よりも楽しみにしていた。2001年秋に引っ越してきて真っ先に買ったのは、自転車だった。
 広くて、平らで、舗装された美しい自転車道路。見やすい道路標識。さすが自転車大国オランダだ。日本のお粗末な状況とは比較にならない。現在でも自転車道路は無いに等しいが、道路交通法で自転車は自動車道路の端を走らなければならないとされる日本。特に車の多い東京では何度死ぬかと思ったことか。
日本の自転車の乗り方は、オランダとはずいぶん違う。そのことに気が付いたのは、私がオランダで初めて自転車に乗った日、マース川沿いの自転車道路でのことだった。私は日本の一般的な速度で自転車を漕いでいる、つもりだった。が、自転車に乗っていると、必ずといっていいほど後ろからベルを鳴らされる。レース用の自転車は仕方ないとしても、普通のママチャリも、子供からお年寄りまでもが、私を追い越していく。まだその頃のオランダは電動自転車が普及していなかったので、当然ながらみな人力である。競輪場のバンクかと見紛うほどのスピードで自転車道路を走り抜けている。オランダ人は一体何をそんなに急いでいるのだろうか。

どうしてオランダ人は老若男女揃いも揃って鬼の形相をして猛スピードで自転車を漕いでいるのか?家に帰ってパートナーに訊いてみた。彼の答えは「みんなが速い、ってことは、自分が遅い、ってことじゃない。」私がそれまで全速力で自転車を漕いだのは、学校に遅刻しそうになった時くらいだった。そうでない時は大概、周りの景色を眺めながらリラックスして、あっちへフラフラこっちへフラフラしながら走っていた。でも、そうやって私は自転車の旅を楽しんでいるつもりだった。が、オランダではそれはもう許されない。周りの自転車と速度を合わせ、流れに乗って漕がなければ容赦なく罵声が飛んでくる。

次の日。自転車で再びマース川沿いの自転車道路に乗り込んだ。まず周りのオランダ人の自転車の乗り方を観察する。彼らはまっすぐ前方を睨みつけ、安定の猛スピードでペダルを廻している。私も前方の自転車に狙いを定めて、それと同じスピードで進むようにペダルを踏んだ。競輪並みの速度を叩き出している、つもりだった。周りの景色を楽しんでいる余裕など無い。この競争に、私は絶対に勝たなければならなかった。この国でいっぱしの自転車乗りとして認められるために。こうして数週間、自転車を漕ぎ続けた。そしてある日、マース川沿いのトロピカーナ(当時屋内プールがあった所)の前で、とうとうお年寄り夫婦を自転車で追い抜くことに成功したのだ。全速力で自転車を漕ぎながら、心の中で私はツールドフランスの黄色いシャツを纏っていた。

(Polderjapanner P.21~22)

自転車に乗れないオランダ人はいない。ということは自転車については誰もが一家言ある。ある書評ポッドキャストで、「自転車に乗るのはAからBまで最速で移動するためでしょ。だから全速力で漕ぐのは当たり前だと思ってたけど、外国人から見るとそんな風に見えていたなんて意外」と盛り上がっているのを耳にした。自分たちがどう見られているか、それをツマミにわいわいと盛り上がりたい読者に、格好のネタを提供することができたわけだ。これで一つの目標は達成できたと言ってもいい。本を書くことになった時、編集者Fさんはこうも言っていた。「オランダの文学は重苦しい話が多いから、明るく笑いを誘うような話が欲しい」と。確かにこういうネタは、自分も書いていて楽しかったし、読者もサラッと気軽に読めていい。後味も悪くない。しかし、サラッと気軽に読める話は、サラッと気軽に消費され、サラッと忘れ去られる。ポッドキャストから聞こえてくる笑い声に、消えていく泡を見るような虚しさも感じている自分がいた。

アジア系外国人としてオランダで生きること

本を書くことになって初めて、オランダ語の読書量が圧倒的に足りなかったことを後悔した。が、後悔先に立たず。そう気付いた日から読んで読んで読みまくるしか道は無い。まずは自分と同じような境遇の作家、つまり外国人か外国のルーツを持つオランダ語で書いている作家の作品から当たってみることにした。
 最初に読んだのは、Rodaan Al Galidiの『Hoe ik talent voor het leven kreeg(俺が生き延びる才能を身につけた方法)』。彼はイランからアジアの国々を経て1998年にオランダに亡命した。一旦は難民申請を退けられたものの、その後滞在資格を得て、現在はオランダで作家活動をしている。イランを出国してから、どのようにオランダに入国し取り調べを受け、難民収容所でどのような日々を過ごしたのかを、冒険譚さながらに綴っている。スキポール空港のトイレでパスポートを破り捨てて流したエピソードには、こんな暴露的な内容が出版されるのか、と驚いた。そこまでの衝撃的なエピソードは私には無いが、30代目前からでもオランダ語を習得して本を書けるようになるんだ、とこの本には背中を押してもらった。後々気付いたことだが、オランダの文学界を見渡してみると、イラン出身で大人になってからオランダに移り住み、オランダ語で本を書いている作家が何人もいる。豊かなペルシャ文学の歴史と詩の吟遊文化が根付いている土地柄だからだろうか。

そして中国系オランダ人として二つの文化の狭間に生きる葛藤を描いたPete Wuの『De bananengeneratie(バナナ世代)』には大いに刺激を受けた。Peteは、中国の温州から不法移民としてオランダに入国し、飲食店を経営する両親の下に生まれた。オランダのアジア系といえば、勤勉で大人しく波風を立てない優等生移民というイメージがある一方で、日曜日の夜に中華料理をテイクアウトする時だけに接触する無個性で顔の見えない人たち、無視しても差別的な言葉を投げかけても構わない対象、として軽視されてきたところがある。そんな世間の差別的な態度に対する苛立ち。外の世界と家の中のアジア的世界とのギャップ。そしてPete自身のセクシュアリティに全く理解を示さない親との軋轢。アジア系二世、三世が共通して抱える悩みを包み隠さず代弁してくれたオランダ語の本は、恐らくこの本が初めてだったと思う。De bananengeneratieに触発されて、アジア系の若者の声を集めたドキュメンタリーが作られたり、演劇版バナナ世代も制作され、今もオランダ各地で上演されている。私もロッテルダムの劇場に演劇版バナナ世代を見に行った。学校でのいじめ、オランダ社会の中で感じる孤独、親世代とのコミュニケーションギャップが、時折笑いも交えて快活に演じられている。観客は大半がアジア系。「あー、あるある」「そう、分かるわー」と嘆息があちらこちらから漏れ聞こえて来る。自分の過去と重ねて涙を浮かべている人もいた。自分たちが受けた差別への悔しさや親世代との分かり合えなさ、オランダに住むアジア系の若者なら誰しも身に覚えのある葛藤に、作家が言葉を与え、役者が息を吹き込み、多くの人と共有できる形にすることに、底知れぬ価値があること。それを目の当りにした思いだった。

このように、外国人や外国にルーツを持つオランダ語作家の地道な積み重ねが下地としてあったこと。そしてBlack Lives Matter運動や植民地時代の蛮行に対する政府の謝罪があり、マイノリティーを取り巻く社会の認識がゆっくりだが確実に変化してきていること。こうした大きな流れの中で、文学にも多様性が求められるようになり、一介の外国人である私にも本を書く機会が与えられた、と思っている。声なき声、活字にされる機会がなかったストーリーに形を与える。ささやかながら、それが本を書く機会を与えられた者にできることではないか。オランダの片隅で暮らしている“私たち“日本人の記録を書き残し、知ってもらいたい。そういう思いがふつふつと湧いてきた。
 Polderjapannerが世に出てから、オランダやベルギーに住む日本人の方々からお便りをいただいた。「私たちの話が本になって嬉しかった。」「オランダ人のパートナーと義理の家族にも読んでもらい、自分がどんな気持ちで異国で暮らしているのか、彼らに理解してもらうきっかけになった。」そんな声を聞いて、私は自分に与えられた役目を微力ながら果たせたのではないかと思う。

マイノリティーになって初めて見えたこと

オランダ語でオランダ人の読者に向けて、外国人の立場からオランダを批判する。しかも外国人同士の内輪トークやネットの落書きではなく、これからもずっと形として残る本の中で。これにはかなりの勇気と熟慮を要した。編集者Fさんからは「オランダ礼讃だけに終始せず、批判的なことを書いても構わない」と言われていたのだが、万が一炎上しても出版社が私を守ってくれるとは残念ながら思えなかった。いっそのこと当たり障りのない食べ物や自転車の話でやめておいてもよかったのかもしれないが、敢えて綱渡りをしてでも、あの番組と差別の問題については、オランダの日本人コミュニティーの歴史の一幕として、どうしても書き残しておきたかったのだ。
USHI(ウシ) 我が家の本棚には“Ushi says ‘Hi!’”というDVDが眠っている。このピンク色のDVDカバーには、ウェンディ・ファン・ダイク(オランダの女性テレビタレント)と”ウシ”というキャラクターに扮したウェンディが並んでいる。ウシは日本から来た女性インタビュアーという設定で、長い黒髪に白いシャツ、少々きつめの黒いタイトスカートのスーツという出で立ちだ。私がオランダに引っ越してきた2001年当時は、この番組が毎週テレビで放送されていた。私はウシのわざとらしい日本人女性のパロディーの中にもそれなりに核心を突いている部分があるように思え、面白がって見ていたことをここに告白しなければならない。たどたどしい英語で頓珍漢な受け答えをするウシの横には、いつも本物の日本人男性が同席し、会話を押し黙って聞きながら時々相槌を打つ。彼がいることで場の信憑性が増し、ウシが本物の日本人女性だと信じこむゲストが後を絶たなかった。この番組は、Black Lives MatterやStop Asian Hateが叫ばれるずっと前、今から20年以上前に放送されていたことを忘れないで欲しい。
 私はシーズン終わりまで、時に大笑いしながら、ウシに対して特に苦々しい感情も抱かずに見続けた。ウシのキャラクターを通して自分が嘲笑の的になっているだなんて、考えてもいなかった。そんな発想は微塵もなかったのだが、ある日こんなことがあった。その当時オランダに住んでいた日本人ならほとんどの人が見ていたネットの掲示板があったのだが、そこである年配の日本人女性がこんな投稿をしていた。
「日本人女性を嘲笑の的にした番組”ウシ”は差別的で、日本人、特に日本人女性を侮辱している。制作会社と放送局に、あのような差別的な番組の放映を即刻中止し、日本人に謝罪するよう求めましょう。」
この方は既に放送局に抗議の手紙を送り付けていて、他の日本人にも同様の抗議をするよう掲示板を通して呼び掛けていた。この書き込みを読んだ私も、私の友人たちも、ウシなんてただの冗談でしょ、抗議なんて大げさな、とその時は軽く流していた。
 それからしばらくしてから、ふと思い出した話があった。私よりも随分前にオランダに移住してきた日本人は、街中でオランダ人にいきなり「ヤッペン!(日本人の蔑称)」と怒鳴られることがあったそうだ。もしかしてあのウシに抗議をした女性も、そんな経験があって、差別に対して敏感になっていたのかもしれない。彼女は恐らく1970か80年代にオランダに来た人だと思われる。その頃はまだ第二次世界大戦中にインドネシアで日本軍の収容所に入れられた経験のあるオランダ人や、日本人をあからさまに嫌っているオランダ人も今よりずっと多かった。結局、彼女の抗議運動もむなしく、ウシはその次のシーズンもまたその次のシーズンも続き、映画まで制作される始末だった。虚しくも抗議の声は届かなかったようだ。

私は人生の前半を、日本で、日本人として過ごしてきた。つまり、人生のほとんどを社会のマジョリティーとして生きてきた。オランダに来るまでは、マイノリティーとして生きることがどういうことなのか、正直理解できていなかった。交換留学でアメリカに行き、人種差別に遭遇したこともあったが、私はしょせん1年経てば日本に戻る部外者にすぎなかった。白人家庭にホームステイし、日本人とはいえ彼らは私を家族同様に扱ってくれたのだが、学校が始まる前日、ホストファーザーにこう忠告された。「学校で黒人の生徒と遊ぶのはいい。でも、絶対に家に連れてきちゃダメだよ。」なぜそんなことをわざわざ忠告する必要があるのか、私にはまったく分からなかった。「差別してるんじゃない、区別してるんだ。そういうものだから。」それ以上、この話題について話し合うことは無かった。
 私はただの留学生で、日本に帰ればまた元の高校生活に何の心配もなく戻ることができる。あの土地で差別されている人たちの立場を、身をもって理解することは到底無理だった。その後、日本で大学に進学し、アフリカ系アメリカ人の英語の先生の授業があった。彼女は授業の度に、日本で受けた差別的な扱いについて、憤りながら生徒に語っていた。が、その時も私は、先生、また大袈裟な、と内心思っていた。日本で日本人として暮らしている限り、少なくとも人種を理由に差別的な扱いを受けることはない。だから、外国人が日本人からどんな差別的な行為を受けているのか、全く無知だった。
 自分がオランダに住むようになり、あのウシに対する抗議の一件や、見知らぬ通行人から突然「サンバル・バイ!」「チン・チャン・チョン」と叫ばれる経験を経てからようやく私も、マイノリティーとして生きるとは、差別の標的になるというのはどういうことなのか、少しずつ分かってきた。不意打ちのように投げ付けられた言葉に込められた差別的な意図が理解できるようになった時はじめて、心がどんより重くなり、纏わりつくような後味の悪さに気持ちが引きずられるようになった。あの時のクラスメートや大学の英語の先生が受けていた差別とは比較にはならないかもしれないけれど、オランダに来て自分が差別される立場になってみて、ようやく見えてきた景色があった。

ウシが放送されていた20年以上前のオランダでは、あの番組に対する批判らしき声は、例の投稿を除いてほぼ聞こえてこなかった。しかし、今はどうだろう。あのような番組を公共の電波に乗せることなど考えられない世の中になった。20年前のあの抗議の投稿を思い出す度、私もあの時抗議に参加するべきだったかもしれない、と思うこともある。今の知識があればそうしていたかもしれないが、あの時は抗議をすることすら思いつかない自分がいた。もし今、ウシが再放送されることになったら、私は真っ先に抗議する。時代は変わったし、抗議するのは私一人じゃないと分かっているから。でも、当時あの番組を見て笑っていた自分を隠して、今ここで私が突如としてウシを演じていたウェンディを批判しキャンセルするとしたら、自分の甚だしい偽善ぶりに恥じ入ることだろう。善人に見られたいがために自分の過去を書き換えるとしたら、それはウシに対してもウェンディに対してもフェアではないだろう。

(Polderjapanner P.151~153)

出っ歯にメガネ、頓珍漢で間抜けな偽日本人ウシ。もう今では知らない人の方が多くなってしまったが、ウシと言う番組がオランダでの日本人のイメージ形成に多大な影響を与え、差別的な態度を助長したことは紛れもない。しかし、差別を受ける当事者になるまで、私も差別される側の痛みに鈍感だった。さらに時代を遡れば、日本人は旧蘭領インドネシアを武力で奪い、オランダ人を収容所に押し込めた敵国の国民と見られ、憎悪の対象になっていた時代もあった。だからこそ、マイノリティーを差別するオランダ人vs. オランダで差別される可哀想な私たち、という単純な二項対立でまとめてしまうのは違う、と思った。他人に指したその指を、自分にも向けてみる。そういう気持ちでこの章を書いた。  過去20年間のオランダ社会の変化を追いながら、外国人政策や差別の問題に関して、時代とともに善くも悪くも変化してきたことを感じている。そんな中でも、ウシのような特定の人種を小馬鹿にするような番組はもう放送しないしさせない、という認識がここ数年で確実に浸透していることは、ひとつの希望ではないかと思うのだ。  

オランダ語というマイナー言語

世界中に約2500万人の話者がいるといわれるオランダ語。それをマイナー言語と片付けてもいいのだろうか。確かにフランス語やドイツ語と比べれば話者は断然少ない。唯一の西洋言語としてオランダ語が輝いていた江戸時代、そんな過去もすっかり忘れ去られたかのように、今や日本での知名度は低い。「オランダでは何語が話されているんですか?」と無邪気に聞かれたことも一度や二度ではない。しかし、たとえマイナー言語だとしても、ここで暮らしていくからには、オランダ語は必要だ。そのゆるぎない現実は、言語がマイナーかどうかとは関係ない。しかしだ。オランダ人本人たちはというと、オランダ語に特別な愛情やこだわり、執着があるようには、残念ながら私には思えないのだ。その空気がオランダ語を習得しなければならない外国人にどんな感情を植え付けるのか。それをこんな文章にした。
Nederlands leren is nutteloos(オランダ語を勉強するなんて時間のムダ)
結婚や家族呼び寄せでオランダに移住する外国人のうち、ある特定の国から来る人は、オランダに入国する前に自国で基礎オランダ語の試験に合格していなければならない、という法律が2014年に発効した。この新しい法律が施行されるというニュースを聞いたとき、私は耳を疑った。私はといえば、過去にオランダ語学習に一度挫折していた。大阪にあったベルギーフランドール交流センターにオランダ語(フラマン語)講座を受講しに行ったことがあったのだが、オランダ人のパートナーに授業で習ってきたフラマン語を笑われ、喧嘩になり、早々にコースを離脱した過去がある。もしこの法律が、私がオランダに来た2001年に既に存在し、日本も対象国だったとしたら……私はオランダに入国できていなかったかも知れない。こんな法律を考えた人たちは、オランダ語を習得するのがどれだけ難しいのか分かっているのだろうか?日本に長年住んでいても日本語ができないヨーロッパ人が大勢いることを知っているのか?日本に移住するオランダ人で、日本に行く前に日本語ができるようになっているオランダ人が一体何人いるというのだ。

市が提供するオランダ語コースを修了した後、NT2(第二外国語としてのオランダ語)試験に合格し、認定書を手に入れた。これで私も充分なオランダ語の知識があると公的に認められたわけだ。が、その程度では、世の中の森羅万象をオランダ語で表現できるわけでも、オランダ語で議論ができるわけでもない。この先、語学コースに通い続けるよりも、大学に入ってしまえば、オランダ語も上達する上に専門知識も身につけられるから一石二鳥に違いない、と思い近所の大学に行くことにした。社会学を選んだのは、世界中から来たあらゆる人種の人々が同居するこのオランダ社会のことをもっと深く知りたかったからだ。
 結局3年で修士コースを卒業したのだが、その間にオランダ語が目覚ましく上達した、わけではなかった。定期試験も卒論も英語可だったのに甘えてしまった。オランダの大学の英語化は必ずしも歓迎すべき面ばかりではないけど、この時だけは有難く思った。途中からは早く卒業したくてしょうがなくなって英語に頼ってしまったのだが、それが私のオランダ語には結果的に良くなかった。大教室に座った大勢の学生の前でオランダ語で発表する機会が回って来たときには、緊張して動悸と手汗が止まらなかった。ディスカッションもまるでダメだった。意見を言おうと思っても声が出ない。意見が無いわけではないのだが、頭に浮かんだ考えをオランダ語でどう言おうか考えている間に、議論はどんどん先に進んで、口を開こうとしたときには既に論点は別の方向に向かっていた。即興でスマートな意見をタイミングよく言うなんて高度な技術は、未だに私には手が届かない。30歳を過ぎてから全く新しい言語を身につけるのは、波が来れば一瞬にしてさらわれてしまう砂の城を建てるようなものである。

オランダ語を習い始めた頃のこと。頑張ってオランダ語で話してみようと街に出ると、私のたどたどしいオランダ語を聞いて「英語に変えようか?」とよく言われた。ほとんどのオランダ人は、善意からそう申し出ているに違いない。しかし、これからオランダ語を習得しようとしている外国人にとっては、これほどやる気を削ぐものはない。こんなに勉強してるつもりなのに、私のオランダ語、そんなに下手くそに聞こえるのか……と意気消沈した。
 更にやる気を削がれるのは、オランダ特有の自虐的な物言いだ。「オランダ語なんか勉強してるの?時間のムダだって!英語ができれば充分だよ。」こんなやりとりを何度したことか。英語に切り替えちゃおうよ、という悪魔のささやきをなんとか意志の力で突っぱねるのに忙しかった。実際、悪魔のささやきに心を折られ、オランダ語を諦めたという日本人の友人も何人かいる。それにしても、このオランダ人のオランダ語に対する後ろ向きな態度は、一体どこから来ているのか?オランダ人特有の斜に構えたような冷めた態度のせいなのか。それとも自虐か謙遜か。それともオランダ語なんか価値がないと本気で思っているのだろうか?
 オランダ語なんて勉強するだけ時間のムダ、という人がよく持ち出す理由は、オランダ語は話者が少ない、だからお金にならない、英語だけできれば十分生活できる、つまり投資に見合うだけのリターンが無い、ということだ。オランダ語話者は世界に約2500万人いると言われている。英語と比べれば確かにマイナーだが、2500万人も話者がいる言葉を“マイナー言語“と片付けてもいい数だと、私は思わない。
 純粋な親切心から英語を話してくれるオランダ人も少なくない。ただ単に英語の方がオランダ語よりかっこいいから、という人もいる。様々な理由はあれど、外国人の立場からすると、オランダ人は相反する両極端なシグナルを発信しているように思われる。一つのシグナルは、オランダ語は役に立たない、だから勉強するだけ時間のムダ。まるでオランダ人自身がオランダ語を蔑んでいるかのような物言いだ。それに対するもう一つのシグナルは、市民化コースを受けてオランダ語の試験に合格しなければ様々な不都合が生じるという現実。『オランダ語なんて勉強してもムダ』なんてオランダ語のできるオランダ人は気軽に言うけれど、そのムダなオランダ語を必死に勉強しないといけない外国人の身にもなって欲しいものだ。

(Polderjapanner P.42-44)

現在は、5年更新の無期限滞在許可を手に入れるためには、市民化コースを修了していなければならない。オランダ語学習も完全に自己負担になった。私がオランダに来た2001年当時は、オランダ語の習得は義務でもなく、語学学校は政府からの補助金で賄われていたので自己負担はほぼゼロ、というゆるくて優しい時代だった。2002年以降様々な出来事が重なり、オランダ政府の外国人市民化政策は厳格化されてきた。むしろ最近オランダに移住してきた外国人の方が、オランダ語学習に必死なのではないだろうか。
 一方で、一般のオランダ人のオランダ語に対するこだわりや愛着は増々薄れてきているような気がする。日本語もカタカナ語の多用が凄まじいが、オランダ語も流行の英単語をせっせと無造作に取り入れている。この流れはもう止められないだろう。オランダ人は英語が上手い、とよく言われるが、上手下手はさておき、欧州大陸の他のどの国よりも英語が通じる確率は高い(私のオランダの義理の家族は誰も英語が話せないが…)。だから、たどたどしいオランダ語に我慢強く付き合うよりも、サッと英語に切り替えたがる人も多い。お隣のベルギーのフラマン語地方の方が、きちんとしたオランダ語を話そう、という圧がずっと強いように感じる。もし私がベルギーに住んでいたらオランダ語で本を書くチャンスなど一生巡って来なかっただろう。その辺りのオランダ人の寛容さは、確かに有難い。しかし、こんなぬるま湯のような環境だと、更にオランダ語の高みを目指そうとモチベーションを保ち続けるのは難しい。“オランダ語の勉強なんて時間のムダ”という悪魔のささやきをはね退ける程の強い動機、もしくは天才的な語学の才能がなければ、登頂は困難を極める。江戸時代の阿蘭陀通詞がいかに貪欲で、いかに優秀だったかを思い知るのだ。
 英語で数多くの作品を発表しピュリッツァー賞を受賞したのちに、英語に別れを告げ、血縁のないイタリア語で書くことを決意したジュンパ・ラヒリ。彼女が初めてイタリア語で書いた『べつの言葉で』という本がある。この本は、彼女がなぜイタリア語に惹かれるようになり、なぜ英語を捨ててイタリア語作家になったのかを語る、イタリア語への愛が凝縮されたエッセイだ。これを読んだ時、第一言語を捨ててまで惚れ込むほどの外国語に出会えた彼女を、私は嫉妬するほど羨ましく思った。私もいつか、そんな風にオランダ語のことを愛せる日がやって来るのだろうか。“オランダ語なんか役に立たない”なんて言わずに、どうか気兼ねなくオランダ語を愛させてくれ、と叫びたくなった。
 私とオランダ語の関係は、“パートナーがオランダ人”“オランダに住むなら必要“という他責の関係から始まった。オランダ語との付き合いが四半世紀になろうかという今でも、胸を張って「オランダ語が大好きです。」と言えない自分がいる。しかし、こんな私でも本を書く機会を与えてもらい、多くの人に読んでもらえたのは、オランダ語だったから、だと思っている。オランダ語の本の世界は小さなマーケットで、読者との距離も近い。朗読会で読者と直接話をして、本の感想だけでなく、オランダ人から見た日本が聞けた。また、オランダ語で書いたこと自体を評価してくれるオランダ人読者からの声も多かった。たとえオランダ人は英語が上手だと言っても、同じ内容を英語で書いていたら、ここまでオランダの読者との距離を縮めることはできなかったと思う。そして誰よりも感謝すべきは、完璧なオランダ語じゃなくてもいい、あなたのストーリーが聞きたい、と背中を押してくれた編集者Fさんだろう。メジャーな言語の出版界だったら、わざわざ無名の日本人に声をかけて、最後まで伴走してくれる編集者がいただろうか。これはオランダでオランダ語をやっていなかったら、一生巡り合えなかった機会だと思っている。異質なものを受け入れる間口の広さ、失敗を恐れない大胆さ、完璧を求めないおおらかさ。そういったオランダ的精神から私の本は生まれたと言っても過言ではない。

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