ピーター・クラーネンボルフ
1994年生まれ。本作は、新人作家を対象とするアントン・ヴァハテル賞にノミネートされた作品集『宇宙飛行士』からの一篇である。他にも、マジックリアリズム小説『Waterland(ヴァーテルラント)』を上梓している。同作は、バスの運転手が頭から離れなくなった歌の歌手を探しにいくというストーリーである。クラーネンボルフは日本の近現代文学からインスピレーションを得て執筆しており、また、オランダの文芸雑誌に日本、韓国文学の書評を寄稿している。
國森 由美子(くにもり・ゆみこ)
東京生まれ。オランダ文学基金認定文芸翻訳者。ライデン在住。訳書に、ヘラ・S・ハーセ『ウールフ、黒い湖』(作品社、2017年)、ルイ・クペールス『オランダの文豪が見た大正の日本』(作品社、2019年)、『慈悲の糸』(作品社、2023年)、ロベルト・ヴェラーヘン『アントワネット』(集英社、2022年)、マリーケ・ルカス・ライネフェルト『不快な夕闇』(早川書房、2023年)がある。ライデン日本博物館シーボルトハウス公認ガイド。音楽家。
宇宙飛行士
ピーター・クラーネンボルフ
國森 由美子訳
僕の父は宇宙飛行士だ。僕の隣人は、夜にドビュッシーを奏でる女の子だった。僕の兄はスウェーデンに住んでいる。この三つのうち、どれかひとつは本当ではない。
どこから始めようか?
1 夢想(Mijmerij)
父が宇宙へ昇っていったのは、僕が作家になろうと決めた日のことだった。打ち上げは、フランス領ギアナのジャングルの奥深くにあるヨーロッパ宇宙センターで行われた。母と僕は、父が飛び立つようすを僕のコンピューターのスクリーンごしに見ていた。同じ時刻、スウェーデンにいる僕の兄メラインは、彼のコンピューターの前にいた。兄は、僕らに熱狂的なショートメールを送ってきた。僕はその中の一通をいまだ携帯電話に残してある――撮影された動画では、父さんが昇っていくんじゃなく、まるで父さんの下にある地面のほうが飛んでいくようだったよなあ――
それは奇妙な瞬間だった。父親がロケットとともに宇宙へ飛んでいってしまうとすれば嬉しくはないが、でもどうしても悲しいというわけでもない。僕は、そんなことができるなどということに驚き、そして少しだけ羨ましくもあった。母は、別れぎわに変な気分だと言い、家に帰っていった。僕はアムステルダムの自分のアパートに残った。その晩、僕は作家になろうと決めた。
夜に星を眺めていたことがあった。すると、隣りの女の子がドビュッシーを奏でた。僕のコンピューターのスクリーンが空白に光る物語を映しだす中、僕は彼女の音がよく聞こえるバルコニーに立っていた。僕の部屋の隅には、タイプライターが置いてあった。それはアイ・ハレンという巨大な蚤の市で二十ユーロで買ったもので、僕はある晩、それでタイプを打った。使い心地はよくなかった。なによりも、そいつは隣りの女の子の弾くのが聞こえなくなってしまうほどやかましかった。
僕は、彼女の奏でる音楽に恋をした。
彼女は毎晩のように弾いた。僕にもはっきり聞こえるくらいの音量で。もしも彼女がほかのだれかであったなら――騒がしいギタリスト、あるいはただ単にほかのピアニストだったり、それとも、彼女がドビュッシーを奏でなかったなら――もう少し小さい音で弾いてくれませんかと、僕は彼女に言っただろう。でも、彼女のピアノは完璧だった。コンピューターの上の壁を見あげるとき、僕は、ドビュッシーの響きがまるでステンドグラスから射しこむ光のようにそこから流れ出してくるのを思い浮かべた。まだほとんどなにも仕上げてはいなかったものの、僕はそれを僕の書く物語のサウンドトラックのように思いはじめた。
父は僕らにメールや画像を絶え間なく送ってきた。そして、こんなことを教えてくれた――大気圏を離れ、黒い無に入っていくと、地球がみるみる小さくなっていくのがわかった。親指と人差し指で小さいまるを作ってみたら、地球はすっかりその中におさまった。それを見て、泣かずにはいられなかった――と。僕は、父の涙が宇宙船の中に浮遊するさまを想像したが、メラインによれば、そんなことはあり得なかった。
父が宇宙空間にいたその何ケ月かの間、僕は午後三時より前に起きたためしがなかった。僕は学業を終えたあと南米へ旅行に行けるようにと貯めた金で暮らしていた。僕は書きに書いた。夜になると宇宙飛行士の父のことを考え、隣りの女の子の弾くピアノを聴いた。僕は、通りの向かい側から撮った映画のワンシーンを思い浮かべた――隣り合う二つのアパート、壁に隔てられた二人の人間、一方にはコンピューターに向かって書いている僕、もう一方には女の子とピアノ、それからピアノの音。僕は、彼女の容姿をはっきりとは知らなかった。一度、スーパーマーケットからの帰りに彼女を見たような気がしたことがあったにしても。道のはずれに、ちらりと見えた金髪。
音楽を言葉で書くのはひじょうに難しく、不可能だ。だが、それでも僕は、夜ごとそれを試みた。試作でいっぱいになったファイル『ドビュッシーに寄せる詩的な楽譜』の中には、Clair de lune――月の光――も含まれている。
星々が点滅し瞬いている。天井の壊れたライトのように。カメラがライトのあいだを、星から星へとゆっくり動いている。時おり画面は静止する。すると。ライトがさっとすばやく点灯する。陽が昇る。空が青くなる。川が画面に流れこむ。解けていく極氷、天高く噴きあがる間欠泉―――――僕らは星々のもとに戻っている。そこでは五つの星だけがいまだに光っている。コンサートホールの照明のように瞬きながら。それから、あたりは暗くなる。
小鳥たちが舞いあがる。たがいにぶつかることなく舞い踊るホシムクドリたち――小鳥たちは散り散りになって飛び、地上に落下する水滴になる。水滴は連なって急カーブを描きながら勢いよく蛇行し……すると僕らは大海の中にいる。そこに飛びこんだトビウオたちは沈んでいき、摩天楼になる。静物画の街、それが動きだすのが見える。建物に登り、屋根の上に立って星を指さす人々。これらすべてが手動ですばやく撮影される。僕らは下りていく。果てしなく高く聳える街の塔をつたって――下の街路のタクシー、その黄色が溶け合い、ふたたび星になる。草の上の露。何枚かの黄ばんだ写真。どれも動きのない画像。
そして。夜に散歩する人がひとり。受け入れるしかないのだという憂鬱からの、あの冷え冷えとした気持ち。きれいな女の子からの拒絶。散歩する人は歩いていく。歩道の上の自分の足を見つめて――と、ふり向き、なにかを見てほほ笑む。その人は視界から消えていく。
拒絶のあれは、メラインから聞いた。僕が初めてメラインを訪ねたときのことだった。僕らはスウェーデンの水辺の岩の上に、ビールの空き缶に囲まれながら座り、沈みゆく陽を見つめていた。兄は話してくれた。十八歳のとき、とびきり美しい女の子に拒絶され、その晩はヘッドフォンでドビュッシーを聴きながら、川のほとりをさまよい歩いていたと。そのとき僕自身がちょうど十八歳で、その話をとてもロマンチックだと思った。兄は思わず笑った。
「なんてやつなんだ、おまえは」と、そのとき兄は言った。「ロマンチックだなんてちっとも思わなかった。自分がクソに思えた」
「それでもやっぱり、いい話だと思うな」と僕は言った。
兄は言った。「映画ならな。ほんととはちがうんだ」
それからというもの、僕は〈月の光〉を聴くたびに、川のほとりをさまよう兄を思い浮かべた。隣りの女の子がその曲を弾くたびに、そのことを考えた。だが、彼女がその曲を弾くときに僕が思い浮かべるのは、兄ではなく僕自身で、順序もさかさまだった。イヤフォンでドビュッシーを聴きながらさまよう僕、そのあとに続くのは、ある女の子への、拒絶されることのない告白。
そして、その女の子とは、隣りの女の子なのだった。
父は僕らにメールを送り続けていたが、僕はだんだん返信する気がしなくなっていた。仲間の宇宙飛行士たちと楽しくやっているんだ、と父は書いていた。何ケ月ものあいだ、一握りの人たちと船内で過ごすには大切なことだ、と。母は絵文字とハートマークだらけの返信メールを送っていて、そのようなメールを誤って僕と兄にも送信した。僕は少ししかメールを送らず、読むばかりだった。両親の話題は、日常のことについて、父が食べたものとか、僕らがいなくて淋しくないかとか、そんなことが主だった。メラインは僕とは逆に、あれこれと父に質問した。地球を見ることが人間になにをもたらすかとか、宇宙空間を宇宙空間として、それとも、ただ単に、一種独特の空虚として感じとったかとか。僕は、僕が書いたものをなにかしら父に、父にだけ、メールで送ったことがあった。一度、僕の『詩的な楽譜』の一部を父に送ったとき、父は返信に、僕の物語が父のタブレットに表示されている画像を送ってきた。画像の背景に、父から見た地球の眺めが見えた。
三ケ月後、隣りの女の子が突然ピアノを弾かなくなった晩があった。僕は、彼女がごく小さい音で弾いていやしないかとしばらく壁に耳を当てていた。もしかしたら、反対側の隣人から苦情が出たのかもしれなかった。だが、なにも聞こえなかった。次の晩も同じだった。そして、三日目の晩には、またもとのように音が聞こえた。ただ、壁ごしに聞こえたのはドビュッシーではなく、隣りの女の子と男のうめき声だった。
僕は書けなかった。言うまでもなく、眠ることだってだ。翌朝、隣接したバルコニーから声がした。極力音を立てないようにして、僕は自分のバルコニーへ出るドアを開けた。男のバリトン声は、僕らの住む通りの裏側にある昔ながらの長屋風な家並みに響き渡った。
「ほう、きれいじゃないか。なんか弾いてくれる?」男が言った。
男はそのまま外にいて、女の子が部屋の中に入っていく音が聞こえた。そして彼女が弾き始めた。ドビュッシーの〈Rêverie〉。彼女は、僕が聞きなれていたように、なめらかに澄んだ音色で弾いた。だが、曲の途中で、その男は彼女に構わず喋りはじめた。そして「ジャズも弾く?」と質問した。彼女が返事をする前に、男は「ちょっとピアノ弾いていいかな?」と訊き、自分のヒーローたちについてべらべら喋りながら、例の煽るようなジャズをピアノから三十分は叩きだしていた。僕は、もう少し小さい音で弾けないかと頼もうかと思ったが、すると隣りの女の子も夜に小さい音で弾くんじゃないかと不安になり、ソファにドスンと腰をおろすと、コーヒーを三杯やけ飲みした。
ずっとそんなことが続いた。ドビュッシーの聞こえない晩、果てしないうめき声、ピアノの音がするかと思えば、それはヤツが弾いているのだった。僕は、そもそもの理由のみならず、音楽とは関わりのない理由でもジャズピアニストに対してしだいに腹が立ちはじめていたが、それでもまだ、音に苦情を言うのをためらっていた。なぜなら、隣りの女の子に起きていることを直視したくないからだった。僕は書くことは書いていたが、どれも永遠に孤独な男たちについての鬱屈した話ばかりになり、それを読んだ父は、泣いているスマイリーに疑問符をつけて僕に返信してきた。
そのあと、僕はスウェーデンの兄のところへ行こうと決めた。メラインは僕の七つ年上だった。兄の彼女のミリアムは当時、彼らの息子を妊娠中だった。僕が彼らの家の敷地に近づくと、ミリアムがお腹に片手を当てながら、家庭菜園をゆっくりと見まわっているのが見えた。ミリアムはけだるい微笑みを浮かべて挨拶し、僕らはおたがいの頬にキスをした。そのときメラインが赤銅色の家から歩み出てきた。
メラインは、家へと続く斜面の階段の上から僕に手をふった。メラインとミリアムの家の敷地は、二つの小さな丘からなっていた。一方の丘の上にはモミの木の茂みに囲まれた中にトイレの小屋があり、もう一方の丘の上には赤銅色の小さな家が建っていた。家庭菜園は丘のふもとにあった。僕はリュックサックを背負ったまま階段をのぼり、メラインは通りすがりにラズベリーの実をひと粒摘めと僕を強くうながした。
しばらくして、僕らは家庭菜園を眺めながら、まるい木のテーブルを囲んでテラスに座っていた。ミリアムは『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいた。メラインと僕は、書くことについて、宇宙飛行士の父について、メラインの教授の仕事について話していた。かつて、メラインは将来有望なピアニストだったが、文学研究の道を選んだ。メラインは大学を卒業すると何年か書店に勤め、その間にアルベール・カミュの作品についての博士論文を書くためのリサーチに励んでいた。そして、リサーチをする途中でミリアムとともにスウェーデンへ渡り、ストックホルムの東にある群島へ引っ越した。博士号を取得後、メラインは現地の大学に採用された。
メラインはいつも、ある意味、鼓舞するような話し方をした。僕はだから、講義室でのメラインを容易に想像できた。たとえば『異邦人』を読むようにとかなんとか、メラインが僕にしきりに勧めるとき、彼の目はひときわ大きく、手ぶりも大げさになり、するとたちまち、メラインの言うことが必然であるような説得力が加わった。スウェーデンの大学生たちがそんなメラインの講義を聞けば、カミュをこの手で棚から掴みだそうと図書館に殺到せずにいられないにちがいなかった。
ミリアムはしばらくベッドに横になろうとしているところだった。そして、メラインの頬に優しくキスした。メラインはちょっと散歩に出ようと言い、僕らは立ちあがって階段を下りていった。メラインはしばらく先の海に近い水辺で釣った魚のことを話した。自分自身は釣りが得意というわけではなかったが、ミリアムにはある種、魚を引き寄せる天性の力があったらしいと、メラインはニヤリと笑いながら言った。それは、彼女の妊娠以来、鮮魚の供給が激減したということでもあり、だからその晩、僕らはふつうにスーパーで買ってきた挽肉の料理を食べた。それでも、メラインは自分で摘んだアンズタケをひと箱、準備してくれていた。
水辺への道すがら、僕は隣りの女の子のことを話した。彼女がどんなに美しく弾いたか、そして彼女の弾く音楽を僕の物語のサウンドトラックのように思っていたということを。メラインをあまり嫉妬させないよう、将来有望なピアニストだったという過去を思い出させないようにと気づかいながらだったが、メラインにとってはどうでもいいことのようだった。あのジャズマンのことを話すと、メラインは大笑いした。
「その話を書かなくちゃだな」と、メラインは言った。僕はふっと笑った。
僕らは水辺に立った。先の方にある岩の上で、父親と息子が釣りをしていた。息子はじっとしていられずに、あたかもオーケストラの指揮者のように釣り竿をあちこち振りまわして遊んでいた。父親は息子にスウェーデン語でなにか言っていた。しばらく、メラインと僕は、そのとび跳ねるような音、その言語の楽天的な響きを聞いていた。僕らの上の空は、まるでだれかが地上の景色の前で彩色されたスクリーンをゆっくりと引いているように見えた。太陽が雲の向こうへ消えると、僕らは家に戻った。
少しあと、メラインと僕は、赤銅色の小さい家の中のテーブルへ一緒に移動しようとしていた。僕はメラインに、まだピアノを弾くことはあるのかと訊いていた。メラインは、幾度となく言っていたようにこう答えていた。もはや一度、優先順位を変える選択をしたんだから。だが僕はせがみ続けた。僕はただ、隣りの女の子が奏でるのを聴けなくて淋しかったのだと思う。
メラインは、隣りの女の子が弾くのを聴けなくて淋しいのか? と僕に訊き、僕はそうだと答えた。
「それに」僕は言った。「そこにピアノがあるじゃないか」
そのピアノは手の届かない食卓の奥に置いてあり、世の中のどれほど多くの住居でも同じであるように、家具以外のなにものでもなくなっていた。僕らは食卓を背後へずらした。メラインは、もったいぶって鍵盤の前に座った。
「まいったな、おい」メラインは言った。「もうずっと長いこと弾いていないんだ」
はじめメラインは、指の練習などの簡単なものをいくらか弾いてみていた。「ドビュッシーも弾くから、心配するな」とメラインは言った。もはやメラインの頭の中にはなんの音楽の知識もないのが見てとれた。それはメラインの指が運動しているのであり、かつてこのような動きに慣れていた純然たる筋肉の記憶だった。
メラインは〈エリーゼのために〉の冒頭を忙しく目を動かしながら弾き、それからヤン・ティルセンの『アメリ』からあの有名な曲を弾いた。そして、背筋を伸ばし、大工みたいに指をポキポキ鳴らしてドビュッシーにとりかかった。それはさほど技巧的な曲ではなく、隣りの女の子が弾くように完璧ではなかったが、自分の兄が弾くのを見るのはいいものだった。メラインはもう一曲通して弾き、そしてまたもう一曲弾いた。メラインはしだいに楽しげになっていった。
すると不意に、メラインの指が勝手に鍵盤の上をさまよっているように見えたかと思うと、はたと止まった。曲のある断片が何度か繰り返された。メラインは考え込むように僕を見つめた。
「これ、なんだったかな?」メラインが言った。「なんの曲?」
メラインはその断片をあらためてもう一度弾いた。それははじまりもおわりもない文のように響いた。なにかの欠片のように。僕もじっと考えた――僕も数えきれないほど聞いて知っていたが、思い出せなかった。メラインは苛立ちはじめた。
「くそっ、なんで思い出せないんだ」
「待って」僕が言った。「知ってる」
「それなら、なんだ?」
「待って」と僕。
「シモン」
「ちょっと待ってったら」
「いい加減にしろよ、シモン」メラインは唸るような声で言った。
そのとき、僕は思い出した。「〈Rêverie〉、そうだ、それだ」
「ああ、そうだよな!」メラインは言って笑いだした。記憶はメラインの指にも浸透していったようだった。メラインの指はそれからいくらか先へ進んだが、でもずっと先までいったわけではなかった。メラインは鍵盤の上に置いた自分の指をまじまじと見て、それから、僕を見つめた。その目はこう言っているかのようだった――もうこのくらいで十分だ。
すると、メラインは言った。「これ、どういう意味か知ってるか?」
「夢に関係ある」僕は言った。
「おれのピアノ教師――マース先生のこと、覚えてるか? 先生がいつも言っていた。〈Rê verie――夢想――〉にぴったりのオランダ語は、mijmerijだって」
――夢想か。マイメライ―メライン――僕は思った。
僕らはその晩、挽肉とアンズタケと家庭菜園から穫ってきたニンジンの料理を食べた。ミリアムは僕に、スウェーデンのどこか別の場所にも行こうと思ってるのと訊き、僕が質問に答えずにいると、カヤックしにいかなくちゃと、ある湖についての話をしてくれた。無人島が点々とあって、赤くて小さい家々がそこらじゅうに建ってるの。僕はミリアムに、考えてみると言った。
客間のベッドから、ミリアムとメラインがしばらくささやきクスクス笑うのが聞こえたが、そのうち僕は眠りに落ちた。
2 カヤック
「シモン」翌朝、メラインが言った。僕らはパンに自家製のラズベリージャムをつけて食べていた。
「シモン、おまえ、だいじょうぶなんだろうな?」
僕はメラインに物語を、つまり〈1〉を読んでもらっていた。そのあいだ、僕は静かにテラスに座り、コーヒーを飲んだりモミの木をしげしげと眺めたりしていた。僕は、兄と兄の二つの丘を、その小さな帝国をすごいと思った。先のほうにある鳥の餌箱では、小鳥たちが忙しくさえずり、羽ばたいていた。人間社会に当てはめると、中世の市場のようにも見えた。
メラインがその質問をしたとき、驚いた小鳥たちが数羽、飛び立った。
「シモン、おまえなあ。なにから始めようか? これ、すごく個人的なことだし、それに……父さんが宇宙飛行士だって?」
「そうだけど、僕の書いたことは」僕は言った。「全部が本当ってわけじゃない」
「シモン、父さんのことはもういいんだと思っていた。おさまりがついてるように見えたから――違ったんだな。そういうわけじゃなかったんだな。まだそんな風にいつまでもうじうじと考えていたとは思いもよらなかった――もちろん、物語を書くのは自由だ。でも、おれのこと? 川のほとりの女の子のこと、それがミリアムだって? なぜミリアムにしようだなんて思いついたんだ?」
僕は内気に笑った。
「この野郎めが」とメラインは言った――そして、メラインの目の中に突然なにか変化が表れ、今度は真剣そのものだった。「〈Rêverie〉がなんだって? おれがピアノを弾くのをやめたのは、もはや一度、優先順位を変える選択をしたから、だって? シモン、そんな風に書くな。それに、本人のおれに見せるなんてこと、するもんじゃないだろう。あの曲を聞くたび、いまだに泣きたいほど悔やんでるっていうのにだ。シモン、おまえ最低だな。馬鹿野郎」
メラインが立ちあがった。
そうだ、すっかり本当じゃないことはいくつかある。葬儀のとき、メラインは〈Rêverie〉を弾いた。だが、最後まで通して弾くことはなかった。メラインは、曲のあの断片部分で止まり、そこをくり返していた。壊れたレコードプレーヤーみたいに、鍵盤上の同じ場所をさまよい続けるメラインの指。場に気まずい空気が漂うまでずっとそうしていた。叔父のひとりが立ちあがり、曲の最後まで弾いてくれないかと言った。それはできずに終わった。
それ以来、メラインはピアノを弾かなくなった。その事情は、ぼくの書いた話とは少し異なっている。メラインにとって〈月の光〉は失恋を思わせ、そして〈夢想〉は、いまや、僕らの宇宙飛行士を思わせるのだ。
すると、メラインは僕を凝視した。
「シモン、おまえ、だいじょうぶなんだろうな? 自分のこと、少しはちゃんとしろよ。おまえな、その隣りの女の子に迷惑かけたんじゃないだろうな、え? シモン?」
なんと言ったらいいか、わからなかった。メラインは、物語への憤りと僕への心配のあいだで葛藤していた。
僕は、メラインのために決めた。客間からリュックサックを取ってきて、丘をおりた。メラインは呼び止めなかった。通りすがりに、僕はラズベリーを数粒摘んだ。
しばらくして、僕は湖にいた。カヤックに乗って。モーターボートが真ん中を突っ切っていたので、僕は、その余波で僕のカヤックが転覆しないようにと、岸に近いところにとどまっていた。僕はいままで一度もカヤックに乗ったことがなかった。だから、少し慎重になっていた。だが、ペダルを漕ぐ加減がわかってくるにつれ、しだいに速度をあげて岸辺から離れていった。
水を横ぎることにした。この大きな湖をというのではなく、時おりモーターボートが猛スピードで行き交う、いわば県道みたいな部分をだ。僕は漕ぎに漕いだ。背後の岸辺で二人のギター弾きがスウェーデン語でデュエットしているのが聞こえた。きれいだと思った。もしかしたら僕は『スウェーデンのバラードに寄せる詩的な楽譜』を書けばよかったのかもしれない。
隣りの女の子が僕の書くのを伴奏したのと同じように、その二人の若者は僕がペダルを漕ぐのを伴奏した。彼らの哀愁を帯びた歌声は水面を、そして僕のカヤックを通り過ぎ、僕が行こうと決めた小島のほうへ漂っていった。湖に波が立ち、何台かのモーターボートの蠕動が聞こえたが、それらは僕の進路の上ではなかった。僕はひたすら漕いだが、自分が距離を少なく見積もっていたことに気づいた。太陽が僕の左頬をほてらせていた。背後の歌声は消えていった。
小島には桟橋やその類のものはなかった。だから僕はカヤックをできるだけ激しく岸にぶつけた。カヤックの尖端が陸の一部に乗りあげた。僕は気をつけながらカヤックから下り、そして岸に引っぱりあげた。カヤックは真っ黄色で、だから緑の中で目立っていた。だが、僕が陸地の奥へと進んでいくうち、島が生い茂る草であまりに覆われているばかりに、カヤックが見えなくなっていくのがわかった。
道は、というか、そこにはなにもなかった。僕の足はシダに埋もれた。木々はモーターボートや水上の人々の音を遮っているかのようだった。僕の踏みしめるサクサクという足音だけが響いていた。島は小さく、果てまでも見渡せた。だが、それでいて、まるで島の外側には世界がないかのように思えた。どこかで大きな獣が、ヘラジカかクマがこちらを窺っているような不気味さにかられた。
僕は寝ころんで空を見た。
宇宙飛行士の父のことを想った。
隣りの女の子と彼女のピアノのことを想った。
部屋の壁のことを、そこからドビュッシーの響きがステンドグラスに透ける光のように流れ出してくるのを想った。
川のほとりにいるミリアムのことを、そしてメラインのことを想った。
すると。ライトがさっとすばやく点灯する。陽が昇る。空が青くなる。川が画面に流れこむ。解けていく極氷、天高く噴きあがる間欠泉――僕らは星々のもとに戻っている。そこではただ五つの星だけがいまだに光っている。コンサートホールの照明のように瞬きながら。そのあと、あたりは暗くなる。小鳥たちが舞いあがる。舞い踊りながらも、おたがいぶつかることのないホシムクドリたち――小鳥たちは散り散りになって飛び、地上へ落下する水滴になる。水滴は連なって急カーブを描きながら勢いよく蛇行し……すると僕らは大海の中にいる。そこに飛びこんだトビウオたちは沈んでいき、僕はカヤックに乗っている。僕は湖上にいて、ペダルを漕いで漕いで、行方も知らず、それでもペダルを漕ぎ続ける。一面の水のただなかを。
(「新潮」2024年8月号掲載)
ASTRONAUT by Pieter Kranenborg
Copyright ©2017 by Pieter Kranenborg
First published by Van Oorschot Publishers, Amsterdam, the Netherlands.
Permissions granted by Van Oorschot Publishers, Amsterdam and Tuttle-Mori Agency, Inc., Tokyo.