ヨーロッパへの窓

★★★★★★

Windows to Europe

スロヴァキア スロヴァキア

ぼくの未来を占ってみて

Tell Me My Fortune

リヴィア・フラヴァチコヴァー

Lívia Hlavačková (H.L.Hempen)

リヴィア・フラヴァチコヴァー(1983年生まれ)は、製薬会社の医師でありながら、スロヴァキアのファンタジー作家としても活動している。15年前に初めて著したフィクションが文芸コンテストで優勝したのをきっかけに、様々な短編作品をSF/ファンタジー雑誌や短編集で発表している。長らく作家活動を中止していたが、最近に再び執筆を始め、計画中のヤングアダルト・ファンタジー3部作のうち2部を出版した。主にスロヴァキア語で執筆しているが、時折、英語でも執筆している。「Tell Me My Fortune」は、ヨーロッパ文芸フェスティバルのために英語で書かれたもので、歴史的な事実に、ほんの少しファンタジーのひねりを加えた作品である。

ぼくの未来を占ってみて

リヴィア・フラヴァチコヴァー
井口富美子 訳

実話をもとにした物語

 私って信用できないらしい。そんなことないよ、もちろんね。作り話なんてしたことない。うーん、まあ、したことはあるけど、何年も前のこと。まだ子どもだったし、そんなの数に入るのかな。
 とにかく、車の轟音が聞こえる。私の部屋の窓のすぐ外で。 おかげで目が覚めちゃった。嘘じゃないよ!
 外はまだ暗い。だいたい、今何時だろう。
 肘をついて上半身を起こし、周りを見回す。よく見えない。まあ、見るべきものがそんなにあるわけじゃないけれど。小さなテーブル、背の高いイーゼル、絵具箱、本が何冊か、それからLPレコードがどっさり。人もうらやむコレクション。この界隈でスモール・フェイセスのニューアルバム『オグデンズ・ナット・ゴーン・ブレイク』なんて持ってるの、私だけよ。ほんの二、三ヶ月前にイギリスでリリースされたばかりなんだ。それに、ポスターも山ほどある。キンクス、ザ・フー、クリーム、そしてもちろんファブフォー、ビートルズ。四方の壁一面に貼ってある。イギリスにいる叔母さんがLPと一緒に送ってくれるんだから、私って幸せ者。自慢のお宝、グレートブリテン島から東に向かって押し寄せるブリティッシュ・インヴェイジョン、典型的な“イギリスの侵略”よ。
 侵略。
 この言葉をきっかけに、無力感が襲ってくる。血、銃、逃げ惑う人々が、閃光のように現れる。

 なんだかわからないうちにそれは消えてしまう。こんなでたらめの断片は嫌い。大嫌いよ。なんの役にも立たないし。そのせいでよく途方に暮れたものよ。でも今はわかる。あれは全体が見える前ぶれだったって。
 ベッドから這い出す。夏の夜風がすがすがしい。窓を開けておいてよかった。音を立てないようにつま先立ちで歩いたりはしない。外から聞こえるあんな大騒音でもママやパパ、兄さんやおばあちゃんは目を覚まさないんだから、木の床がきしむくらいどうってことない。カーテンを開けてみる。
 ええっ! 冗談でしょ!
 戦車だ。
 マジで本物の戦車が通りを進んでいく。しかも何台も!
 私は通りを見下ろしたまま、目を離せない。すっかり目が覚めてしまい、アパートの上を飛行機が飛ぶ音が聞こえる。呼吸が浅く速くなってくる。
 背後で何かがきしむ音。ぎょっとして窓から飛び退いた。心臓が躍る。
 「スタンか。おどかさないでよ!」
 「ぼくが来たのが目に入らなかったのかい?」おばかな兄さんが私をからかう。
 ビジョンのことは説明不要だ。兄さんはわかっているから。だいたい、家族の中でビジョンを気にしてくれるのは兄さんだけ。ほかはみんな、よくあるティーンエイジャーの作り話だっていう認識。そりゃね、ときどきはでっちあげるわよ。でも大事なときに作り話はしない、絶対に!
 「どうしたんだ、またなにか……見たのか?」兄さんは“見た”にアクセントを置き、急に真顔になって訊いてくる。
 「侵略」と答える。
 兄さんはうなずく。
 兄さんははっきり間違いだとわかるまでは信じてくれる。間違ったのは、このやっかいな“才能”を授かって以来たったの三回。ほかの家族は、私が勇気を出して口を開くたび、その三回のことを持ち出す。だから「ほかは全部正しかったじゃないか」と反論するのはあきらめた。だってみんな、一ミリも信じようとしてくれないから。
 「たいへん、戦争よ、また戦争になる。どうしよう!」ママの泣き叫ぶ声が近づいてくる。
 兄さんの車椅子の後ろに、ママが姿を現す。
 戦争!?
 これが戦争になるの? 私には……わからない。ビジョンは見えない。なるほど。私がちゃんとした答えを知りたいときに限って、ビジョンは現れない。かなりやっかいだ、言いたかないけど。
 「戦争なんて起こってないよ」パパは、私がそうあって欲しいと願っていることを言う。「なにかの間違いさ。きっとね。さあ落ち着いて。お茶でも飲もう。もしかしたらラジオで説明があるかもしれないし。ほら、おいで」
 もう一度窓をのぞいた。戦車がゆっくり市内を通過していく。私にはなにも見えない、目でも、心でも。そのくせ自分の中に生まれつつある危機感を払いのけることができずにいる。これは恐怖じゃない。恐怖の感覚とは違う。

#

 私は両親のいる台所へいく。立ったままドアの枠にもたれかかる。そわそわして落ち着かない。両親は電気を点けようとしない。おばあちゃんはろうそくを二本灯して座る。その顔には覚悟と疲労が入り混じっている。おばあちゃんにとって、すべてはいつか見た光景だ。もし戦争になったらこれが三度目になる。おばあちゃんの友達や親族はもうあらかたお墓の中だ。パパの三人の兄弟も。
 ラジオはいつも通りの夜の番組で、静かな音楽が流れている。パパがお茶を入れ、二日前におばあちゃんが焼いたビスケットの箱を兄さんが取り出す。食べ慣れた甘くてほっとする味。戦車の走行音が聞こえる。ときおり飛行機の音もする。
「ソビエトか?」飛行機が近づくとパパが驚いて口走る。戦争中パイロットだった人の耳を私は信じる。
 「ロシア人が、どうして、なぜそんなことをするの?」ママの目は大きく開いている。ママが狼狽するなんでびっくりだ。どんなことにも動じない人なのに。戦争中は看護婦だったし、今はオペ室看護師として働いている。
 「座ったらどう?」おばあちゃんは、明らかに話題を変えたがっている。
 私は首を振り、ろうそくを灯して自分の部屋にもどる。まるで何事もないかのように、このままここでじっとしているなんてできない。何かしなければ!
 ろうそくをテーブルに置き、スケッチブックを取り出す。何を描けばいいかわからない。いたずら描きをしてみる、それがビジョンの引き金になることがあるから。真夜中の部屋で、ろうそくの光を頼りに描くなんて初めてだ。でもね、通りを戦車が行くなんてことも初めてだから、今日は何でもありだ。

#

 ああ! 何ひとつ描けない! 未来のかけらさえ見えない。
 台所へ戻ってどっかり腰を下ろす。お茶はすっかり冷たくなっている。だれもしゃべらない。ラジオは退屈な音楽をたれ流している。外では軍事パレードがあいかわらず脅迫的な音でその到着を告げている。遠くに銃声が聞こえた気がする。自信はないけど。想像力が働き過ぎて勘違いするのはこれが初めてじゃない。
 「一晩中ただ黙ってここに座っているか、それとも無理にでも寝ることにするか? もうすぐ夜中の一時だ」兄さんが現実に引き戻す。例のごとく地に足が着いている。私とはまるで性格が違うから、時々自分はもらい子なんじゃないかと思う。おばあちゃんによると、パパとママはあるとき赤ん坊を授かるという希望を捨てたらしい。
 希望。
 突然、道路に横たわっている兄さんが見える。死にかけている。希望はないとわかっている。軍用車が兄さんを見過ごした。車椅子の壊れた車輪がキーキーと音を立てて回っている。兄さんは血を流している。希望はない。

 私はビジョンから現実に戻り、悲鳴に近い声を上げる。泣き声が喉に詰まり、怯えた目をひたと兄さんに据える。
 そんなことさせるもんか!
 「眠れそうにないのかい?」おばあちゃんが兄さんに訊いた。しばらくしてようやく、兄さんがベッドに戻ろうと言ってたことを思い出す。スタンは肩をすくめると、さっきから指の爪でつついていたテーブルの穴にまた注意を向ける。おばあちゃんが兄さんの手をたたかないなんて不思議だ。ほかのときなら絶対そうするのに。
 夜の音楽が止み、ラジオが大音量で鳴り始める。みんな飛び上がらんばかりだ。
アナウンサーの声はぞっとするほど冷静で、近所の人を起こしてください、と言う。重要なお知らせがあります。
 両親はすぐさま言われたとおりにする。おばあちゃんはみんなにお茶を入れなおしてくれる。

#

 「時間がかかりすぎ!」私は文句を言う。
 「まだ三十分だよ」
 「遅い!」
 スタンはあきれ顔だ。もうすぐ二時。まだまだ……がんばれ! どうやら、ついに来たかって感じ。みんな息をこらしている。パパは正しかった。ソ連軍。ポーランド軍。ハンガリー軍。やつらがここにいる権利はない。ここは私の国、私の故郷だ。出て行って欲しい。スタンを殺させるものか!
 放送が中断された。みんなに冷静になれと言いたかったんだと思う。
 冷静。
 今度のビジョンはずっと鮮明だ。通りにあふれる人々は冷静とはほど遠い。石を投げ、大声で叫び、抗議している。銃声。悲鳴。みんな怯えている。思ったよりましだけれど。だれかの血にまみれた父。今よりずっと年をとった自分、死を恐れている私が見える……。

 「ニーナ、どうしたんだ?」スタンが私をビジョンから引き戻す。
 「幻覚はなしよ、ニーナ。今はだめ、今はだめよ!」ママは私がまだ口を開いてもいないうちに戒める。その声は甲高い警笛のようだ。涙が一粒ママの頬を伝う。
 私は兄さんを見て首を振る。私は握りしめた両手を後ろに回す。ひどいわ、こんな恐ろしいビジョン、見たくて見ているんじゃないのに! スタンと一緒にあんないかれたバイクに乗りさえしなければ!
 「とんでもない誤解があるんだろう。そうとしか思えない。やつらはすぐに出て行くさ。まあ見てろ。すべて解決したら、出て行くに決まってる。こんなことをする権利はない。法律で禁止されているからな。やつらは出て行く。今にわかるさ」パパの話は、他人だけでなく自分も納得させたいように聞こえる。
 パパは間違ってる。すぐには出て行かないよ。なぜそれがわかるのかは不明だけど。そのことでビジョンを見たことは一度もない。
 ただ……そうだとわかるだけ。そうか、ビジョンが見えなくても、“わかる”ことがあるんだ!
 驚きが顔に出たに違いない。家族は私を穴の開くほど見つめている。
「どうしたの、ニーナ?」おばあちゃんがなだめるような声で訊ねる。もしおばあちゃんと二人きりだったら答えるんだけど。たとえ話したとしても、おばあちゃんは、まあなんというか、話半分にしか聞いてくれなかっただろうけど、少なくとも私が自分のビジョンを信じてるってことはいつもわかってくれた。
 「なんでもない」そう言ってごまかすと、それ以上聞かれないよう大急ぎで自分の部屋に逃げ込んだ。

#

 再びスケッチブックに向かう。今度は美しい色鉛筆セットで描く。
 あっと思うとビジョンが見えて、圧倒される。自分が何を描いているのかさえほぼわからない。次から次へ、ページを埋めていく。すごく乗ってる感じだ。
 ひとつだけ気づいたのは、グレー、黒、赤を多く使っていること。グレーと黒を使うのは、何か恐ろしいもの、ぞっとすることを表現したいとき。そして赤は? 赤で描くのは血だけだ。
 すべて描き終わったと感じたとき、もう五時になろうとしていた。手はけいれんし、スケッチブックはおおかた埋まっている。
 描いたものを早く見たい気持ちと、見るのが怖い気持ちがせめぎ合う。血を流す兄の記憶が、私を最初のページへといざなう。
 最初の絵は戦争と受難の、身の毛もよだつ光景だ。私が描いた顔のない人たちはみな、血をしたたらせている。頭がくらくらして、めまいがする。目を閉じる。残りの絵はもう見たくない。
 こんなビジョン、大嫌い! もう二度と見たくない。頭がおかしくなっちゃった。だれも私を信じてくれない。だれも私の言うことを信じようとしない! でも、なんのために? 自分でも意味不明のおかしな警告ばかり見るから? 恐怖でゆがんだ顔が見えるから? ビートルズが出すアルバムはあと四枚きりだと知っているから? そんなこと、知りたくない!
 声にならない叫び、声のない叫びが大きく開いた口から吐き出される。それで少し気持ちが楽になる。なんとか気を取り直して目を開ける。深呼吸する。これから氷のように冷たい水に飛び込むかのように。そしてページを一枚一枚めくっていく。
 男が一人、戦車砲の砲身の前に立っている。彼のシャツは大きく開いていて、まるで自分の心臓を撃ち抜いてくれとでも言うようだ。ここがどこかは知っている。大学校舎の正面だ。
 この場所はほかの絵にも登場する。ほとんどの絵で、人々は兵士の銃撃から守るように頭をかかえている。大学の階段に立っている若い娘。その身体には赤い花がぴったりついている。私、どうしてこの娘の顔をこれほど克明に描いたのかな。その他大勢はラフなスケッチなのに。でも彼女を描いた部分は……満足な仕上がりではないけれど、驚きで目を丸くしている。それとも恐怖で? おそらくどちらもだ。
 どうして、よりによって大学校舎の前がこんなに大混乱なのか? もうすぐその答えがわかると思うと怖い。
 “今日”とか“数日後”のことだと感じるような絵は多くない。ほどなくして戦争らしき絵に切り替わる。ぱらぱらとめくりながら、自分が何も感じないことに戸惑う。私って、こんなに非情な人間?
 “戦争”の章の終わりまできた時、冷め切った自分がいる。言葉で埋め尽くされたページがある。父母から受け継いだバイリンガルの私が話せる二種類の言語で。文章はない、単語だけ。
 犠牲。平和。何もするな。戦争なんてない。行動を起こすな。監視は怠るな。戦えない。ほうっておけ。内輪のもめごとだ。
 文字の連なりを読みながら、別のビジョンが現れる予感がする。ところがビジョンは現れず、自分たちが見捨てられたことだけが“わかる”。だれも助けになんか来ない。他国からしたら取るに足らない国。そんな国のためにだれがソ連と衝突するだろう。核攻撃のリスクを冒してまで。戦争は起こらない。
 ほっとすべきなんだろうけど、無性に腹が立つ。どうして私たちをあんな目に? 間違っている。
 不意に、以前ビジョンが間違っていた理由が思い浮かぶ。私が見ている未来は、決断が下されると変化するのだ。戦争は一つの可能性だったが、なくなった。面白いな。一晩でこれほどおびただしい数のビジョンを見るからには、それなりの意味がある。
 それでもやはり、彼らは私たちを助けるべきだった。歯ぎしりしながら、次は何だろうと考える。新しい章だ。
 この章ではあちこちに自分がいる。口がない、おびえた目をした顔。別の顔は目を閉じて耳を塞いでいる。私がこれほど見たくない聞きたくないことって、いったい何なの? 絵を見ていると、閉じ込められて身動きが取れないように感じる。スケッチブックのほとんどの絵で、私はどこかに隠れている。テーブルの下、ドアの後ろ、毛布をかぶっていることもある。まるで、それでなんとか隠れおおせるかのように。ぞっとするような顔の、肩から武器を下げた男たちが私を探している。
 鼓動がこんなに速くなったことはあっただろうか? いいや。これに比べたら、前のはせいぜい速歩だ。
 別の絵では、私の描いた絵画が山積みにされて燃やされている。その理由はビジョンじゃない。自分の考えを絵に表現したからだと、おぼろげながら理解できる。私は後ろ手に手錠をかけられてひざまずいている。泣いているママを、パパが抱きしめている。おばあちゃんは立っているのがやっとみたい。兄さんは……兄さんがいない。
どこにいるの?
 どの絵にも兄さんがいないことに気づく。
台所で見た兄さんの姿を思い浮かべながら、ページをめくってさがし始める。兄さんは市内に戦車や銃がある“今日”の章にはいないし、“戦争”の章にもいない。言葉で埋め尽くされたページでも兄さんには触れていない。自由への愛をたじろがせるページにも兄さんはいない。
 呼吸が速く浅くなって窒息しそうだ。だんだん気が遠くなる。両手が震えている。
いた、ここだ!
 私はほっとしてため息をつく。だが安心するのはまだ早い。
 自分が描いたビジョンを見る。私の喉に大きな塊がある。再びめまいがしてくる。ページをめくると、また同じビジョンを描いていると気づく。兄さんの死の絵だ。
 車にはねられ、弾に撃たれ、残忍な兵士に蹴られ、革ジャンを着て肩から銃を下げた男たちに抱えられ、狭く暗い部屋で……。
 「やめて!」私は絶叫し、泣きじゃくる。
 「どうしたんだ?」部屋に駆け込んできたパパが詰問口調で訊く。
 パパは私の涙でぬれているページを見る。そのページでは、兄さんの脳みそが吹き飛んで、留置場の壁一面に飛び散っている。
 「これはなんだい?」パパの声音が変わり、その顔を見なくてもパパが絵を見ていることがわかる。
 「ビ、ビジョン……」
 「なんだって?」その声は理解できないと言っている。ママと違ってパパは、私のビジョンに真実もあると、しぶしぶでも認めることがあったのに。
 パパを見る。何度もまばたきしないとちゃんと見えないし、まばたきすると涙が頬を伝う。パパは混乱し、恐れている。当然だ。スケッチブックに視線を移し、次いで私を見つめる。なにか決心したんだ。私はただ願う……。
 「これは……」パパはいまいましげに首を振る。まるで私の心臓を突き刺すように。「これはやりすぎだ」怒鳴ったパパは私に目もくれず、ドアをバタンと閉めて出て行った。
 それだけはやめてほしかった。どうしてパパは私を信じてくれないの?
 ドアが閉じる音で私の涙も止まる。心が揺さぶられすぎて疲れ果てた。一晩眠れなかった上にこれだもの……首を振りつつ、無理やりスケッチブックの最後を見る。
 ビジョンは兄さんの死に方を幾通りも描くのに飽きると、ようやく役に立つものを見せてくる。
 最後の三枚が私に希望を与えてくれる。三つの選択肢。三つの可能性。兄さん、家族、そして自分自身を救うための。
 新たな決意と共に、私は部屋を出てバスルームに行き、絶望の最後の残りかすを洗い流す。ツイッギー・ルックに太いアイライン、マスカラをたっぷりつけた顔はまるで戦化粧だ。外は戦争じゃないだろうけど、私の内側は戦争だ。

#

 ママはいつもより早く出勤する。外で起こっていることを考えると病院にいないといけないだろうから、と言う。ご明察、と思うけど、黙っている。パパは高校で教えているから、今は私と同じ、夏休みだ。パパはずっと前に除隊するよう“頼まれた”。戦時中に英国で従軍したパイロットは、新体制では疎まれる。兄のスタンも家にいる。数学科進学を控えた夏休み、障害のせいでアルバイトが見つからない。おばあちゃんは二年前に引退している。
 ママが出勤すると、パパは平静を装うのをやめて部屋の中を行ったり来たりし始める。その姿はいつか動物園で見た熊を思い出させる。しばらくすると、パパが着替えてきた。
 「おまえたちは家にいるんだ」出かけ際、パパはみんなにそう命じる。
 「わかった」私はすかさず答える。さしあたりそれが、兄さんの安全を確保する三つの方法のうちのひとつだから。
 「だめだよ、絶対だめ!」スタンが父親譲りの声で言う。「僕らがいるのは街のどまんなかだよ。外がどうなっているか、窓から見ただろう? 通りは水曜朝六時とは思えない混雑だ。あそこが安全じゃないなら、もうどこだって安全じゃない。みんなで食料を買いに行こう。どの店もすぐに空っぽになるだろうから。それに、車椅子の障害者を襲う人はいないしね」
 パパはちらっと私の方を見る。私は激しく首を横に振る。どこへも行っちゃいけない。私が口を開いて反対する前に、パパがため息をついてうなずく。ひとつ目の希望に決定的な打撃。
 「二人とも騒ぎに巻き込まれたらどうするの。ラジオで言ってたこと、聞いたでしょ……」
 あれから別の放送があって、そっちは中断されなかった。それによると、外国の軍隊は政府の承認を得ていないという。
 つまり、じゃあ、いずれはそうなるってことなのかな。それにしても私、なぜそうだとわかるんだろう?
 「よし、みんな一緒に来い。買い物袋を持って。食料品を調達しよう。ただし、私の言うとおりにすること。わかったかい? それから、おまえの馬鹿げたビジョンの話はなしだ。約束だぞ、ニーナ」「パパに警告しているだけよ」
 そんなこと約束するもんか。びっしり描かれたスケッチブックだけを自分のバッグに入れる。

#

 街は大混乱だ。
 人々はなんとか戦車を止めようとしている。こんなの、常軌を逸してる。私はもう二度、兄さんの命を救った。一度は交差点で、軍用車に轢かれかけたのを止めた。車椅子が目に入らなかったのだ。二度目は最初と同じ、違うのは相手が戦車だったこと。ここまでは、まあ順調。
 兄さんとおばあちゃんは、何が気に入らないんだと何度も訊いてくる。黙りこくって気まずいという。私はうなずくしかない。いつもなら、なにかにつけて一言言わずにはいられないから。頭の中でひどく大げさな声が延々と続き、おかしくなりそうだ。私は我慢を続ける。
 私は話しちゃいけない。それは二番目の絵が教えてくれたことだ。パパがこの戦争について判断を間違っていようと、おばあちゃんが外国の軍隊はすぐに出て行くと誤解していようとかまわない。私はそれを訂正しちゃだめなんだ。たとえそうしたとしても、二人は信じてくれないだろう。絶対に!
 食料品をいくらか買い込む。欲しかったものが全部買えたわけじゃない。考えることは皆同じだから。買った物を家に持ち帰り、朝食をすませると、すぐまた街の中心に戻る。パパはそうせずにはいられない。事件の現場にいたいのだ。スタンも同じ。おばあちゃんと私は二人について行くだけ。
 おばあちゃんは、戦車が通るたびに失望を深めていく。あの人たちは同盟国だったんだよ。対ナチ戦争では助けてくれた。それなのになぜここにいる? この国がようやく少し自由で寛大で上向きになってきて、さあこれからというときに!
 パパは怒りを募らせている。まるで戦いの準備をしているようだ。
 そうこうするうちに、私たちは一台の軍用トラックを囲む人だかりに加わる。人々は兵士に話しかけている。彼らは私たちと同じように困惑している。その様子から、うそばかり聞かされてきたようだ。どうも彼らは私たちを助けるために来たらしい。でも、そんな“助け”はいらないと、どう説明すればいいのだろう。
 「なにしに来たかなんてどうでもいい。現にここにいるんだから」と、スタン。
 「しばらくの我慢さ」と、おばあちゃん。
 「ずーっと居座るわ」そう断言して慌てて口を閉じる。
 もう手遅れだ。
 「黙りなさい、ニーナ。言っただろう、黙るんだ!」パパが怒鳴る。
 驚いた兵士がパパの方を振り向き、とっさに銃を向ける。私は両手を挙げて銃の前に飛び出し、片言のロシア語で何でもないと説明する。用心深く立ち去る私たちの背中に、兵士が家に帰れとかなんとか言って叫んでいる。
 しくじった。とんでもないへまをやらかした! 兵士たちはスタンを殺さなかったし、実際に深刻な問題が起こったわけじゃない。それでも、あれはまさにやっちゃいけないことだった。どうして私は黙っていられないの。
 パパは私に怒っている。でも私は自分に怒っている。パパよりも激しく。誓ってもいい。兄さんの命を救うふたつ目のチャンスを私は逃した。みっつ目は最後のチャンスで、これを潰したら私は自分を許せないだろう。

#

 いったいもう何時間、外の混乱の中ですごしたのか。スタンと私だけでも先に家に戻りたいと、何度か頼んだけど無駄骨だった。
 周囲の人たちは、うろたえ、おびえ、怒っている。が、それとはちょっと矛盾するような親切心も持っている。道路に駐車している戦車や車に食べ物や水を運んでやる人もいる。車両に押し込められて兵士たちは窮屈だろう。かわいそうだなと思う。あの人たちのせいじゃないのに。おおかたの兵士はスタンより年下だ。
 この街はそんなに大きくない。私たちは同じ通りをもう五回か六回は歩いた。これほど人であふれた通りを見たのは初めてだと思う。またしても大学校舎の真ん前だ。だからこの場所の絵がたくさんあったんだな。ここは市内にひとつしかない橋の入口。あるいは出口。どっちから見るかで違うだけ。ここへ来るたびに、私は急いでこの場から家族を引き離そうした。時間は正午過ぎ。ここにいたくない。それなのに、心の中の何かが、ここにいるべきだと告げる。これは予感なのだろうか、それともビジョンの正しさを確かめたい病的な好奇心なのだろうか。もはや確信はない。
 空気は手でつかめるくらい張りつめている。
 「私ね……ここを離れたほうがいいと思うんだよ」おばあちゃんがためらうのは初めてだ。
 さらに、おばあちゃんは予期せぬ行動に出る。私を見つめ、首をかしげると訊いてきた。「ニーナ、このことで何かビジョンを見たんじゃないかい?」
 あまりのことに、私は口を開くこともできない。パパは信じられないといった顔でおばあちゃんを見つめている。兄さんは眉をつり上げる。
 私はようやっとうなずく。
 「何が見えたの?」おばあちゃんは真剣だ。ばかにしてもいないし、からかってもいない。聞くだけ聞いてあとから怒鳴りつけようってわけでもない。でもどうして? 私と同じように、来たるべき悲劇を感じているの? おばあちゃんも何かを見たの? 私にビジョンが見えるのはおばあちゃんからの遺伝で、バイク事故はただのきっかけだったの?
 バッグからスケッチブックを取り出し、ぴったり当てはまるページを探し出す。撃たれて驚く女の子の絵だ。
 やっとのことでその絵をおばあちゃんに渡すと、銃声がした。私は左から兄さんの車椅子に覆い被さり、パパは右から同じことをする。たとえ私の言うことを信じていなくても、どうやらパパもスタンを守ろうと決めたようだ。それとも、もしかしたら信じたことを認めたくないだけ?
 兵士たちは空に向けて威嚇発砲している。群衆の投石に腹を立てて。本気で誰かを殺すつもりとは思えない。けれども耳をつんざく銃声が消えてしまう前に、数発の銃弾が人間という柔らかい標的に命中する。
 一人は兵士のようだ。もう一人は労働者の格好をしている。三人目は背中を撃たれていた。
 四人目は若い娘で、私と同じ年頃だ。驚いた顔をして血だまりに横たわっている。
 人々は叫びながら逃げて行く。その場に立ち尽くしてあんぐり口を開けている人たちもいる。同盟軍が自分たちを撃ってくるなんて思いもよらなかった。彼らを挑発するつもりもなく、ただ彼らに出て行って欲しいと望んだだけなのに。
 出て行く。
 その言葉が迫力のある短いビジョンを引き起こす。そこには叔母が、タワーブリッジが、それからビッグベンが見える。家族は何日間も小さくて窮屈なシュコダに乗っている。その車を走らせて、二度と戻ってこない。私たちは生きている

 「ここから出て行こう。今すぐ!」私は思わずそう口走った。
 「よしわかった。ここは安全じゃないからな」と、パパ。
 「違うの、私が言いたいのはそれじゃない。この国を出て行くの。今すぐに。まだ間に合ううちに。さあ行こう!」
 大至急逃げ出したいという欲求がパニックから来るのか、大げさすぎる性格だからか、それともビジョンを見る才能のせいなのかはわからないけど、これは途方もない衝動だ。今すぐ行動せよ!
 「しっ! 声を小さくしろ!」
 言われたとおりにするけど、私はしつこいから。「チェコスロバキアを出ないといけない。そうしないとみんな殺される。こっちの親戚はみんな死んでしまったから心残りもない。私たちは半端者。ママはイギリス出身で、パパは軍から追放された。おまけに私は絵描きで予言者ときた。たとえパパがそのことを絶対に認めたくないとしてもね。そしておばあちゃんとスタンは格好の標的で、その急所を突くだけで、やつらは家族全員を一網打尽だ。信じて、パパ! お願い! これから一生私を信じなくてもいいから、今度だけは信じて! この話を信じて欲しい。私にはわかるの。ブラチスラバを出て行かなければ!」
 私が得た教訓は、言いたいことを全部吐き出したら黙ること。サイレンス・イズ・ゴールデン。ザ・トレメローズのヒット曲のように。
 今この瞬間にパパが何を考えているのかはわからない。狼狽しておびえてるみたい。スタンを見る。兄さんは笑っていない。
 だからおばあちゃんの方を向く。おばあちゃんは震える手でスケッチブックを持っている。唇も震えている。ようやく顔を上げると、その目は涙で光っている。
「これを見て、イヴァン、最後まで全部」おばあちゃんはスケッチブックをパパの鼻先に突きつける。
 それをちらっと見て目を大きく見開くと、パパはおばあちゃんのか細い指からスケッチブックをひったくり、パラパラめくっていく。
 見終わると辺りを見回す。青ざめて今にも倒れそうだ。車椅子のハンドルをつかんで、かろうじて立っている。
 「どうやって……いつ……どうやって……」
 「ビジョンよ……」
 「こんなのは嘘っぱちだ」と、パパは言う。それはまるで、娘が言い張るように未来が見えるのかもしれないという事実を認めたくない、パパの無駄な抵抗に聞こえる。
 「ううん、ほとんどが的中してる。こんなにたくさんのビジョンを見たのは昨晩が初めてよ。私、だんだんわかってきた。最初は戦争が見えたけど、そのあと見なくなった。だれかがどこかで、介入しないと決めたんだと思う。つまりそのとき、戦争が起こる可能性がなくなった。それで私のビジョンが変化した。パパが間違いだと言い続けた三つの出来事はそういうことだったのよ。未来って変わっていくものなんじゃないかな」
 「これはなんだ?」パパが指さしたのは、口のない私や、肩から銃を下げた男たちと一緒の私が描かれたおぞましい絵だ。
  「やつらがこれから引き起こすことなんじゃないかな」 私は周囲を見回し、だれともなしに指さした。おびえた人たちが周りを右往左往している。私たちは人目につかないように近くの公園に避難する。「政治に異を唱えないよう、共産党は私たちを型にはまった……従順で……正常な人民に仕立てたいんだ」
 正常。
 この言葉がきっかけでビジョンが変わる。軍隊は撤退せず、以後何年も何年も国内に駐留する。隣人といえど信用ならない。だれが密告者かわからないから。本心が明かせるのは密室の中だけ。

 吐き気がしてきた。そんな生活、私には無理。それが性に合っているという人も大勢いるだろうし、その世界で成功する人だって出るだろう。ただそのまま暮らしていくだろう。じゃあ、うちの家族は? 我が家は破滅だ。
 「ここにいたら破滅よ」私は断言する。自分にとってそれは真実だから。
パパはしばらくの間私をみつめる。それからもう一度すべての絵を見て、辺りを見回す。
 「おまえの言うとおりだ」永遠かと思える時間が過ぎた後で、パパがそう言う。
 信じられないと思い、パパを見つめる。ややあって大きな開放感を味わう。叫び出すかと思うほどの! 私が言ったことをパパは信じてくれたのね?
 「ほんと?」
 「言っただろう。家に帰ろう。荷物をまとめてなんとか無事に逃げる方法を探すんだ。今日は無理だ。みんな神経をとがらせているからな。だができるだけ早いほうがいい。
 「ママがうんと言うかな?」スタンが訊いた。
 「実は以前、国を出ようと考えたことがあった。思いとどまったのは、ドプチェクとその改革に希望を感じたから。だがそれももう終わりだ。ここにいても八方塞がりだ」
 「私もそう思うよ」と、おばあちゃん。
 「じゃあ……じゃあ信じてくれるのね? 未来が見えると私が言っても?!」
これって夢なの?! すごいよ!
 「違う」パパの一言が私を現実に引き戻す。
 「信じちゃいない。でもおまえはとても感覚が鋭い。未来が見えるみたいに状況を明晰に判断できる。おまえの判断に耳を貸さないなんてばかなこと。特に私がおまえに打ち明ける話については。でも違うんだ、ニーナ。おまえに未来のビジョンが見えるなんて信じていない。さあ、家に帰って荷造りだ」
 そう言うとスケッチブックを私に返し、くるりと向きを変えると家に向かって歩き出す。行進する兵隊みたいに。
 私は唖然として見つめる。
感覚が鋭くて状況を明晰に判断? どういうこと? 私の知らない娘がもう一人いるわけ?
 「じゃあ、これはどうなのよ……」私は若い娘の絵を指さした。私に似ている撃たれた娘を。見た目もそっくりよ。パパには見えないの?
 おばあちゃんが、しっ、と言って私を黙らせる。「イヴァンはなんにでも理屈が必要なの。だからあんなふうにとりつくろったんだ。パパが信じようと信じまいと関係ない。おばあちゃんはニーナを信じるよ」
 「ぼくもだ、ニーナ」
 「でもね、いいかいニーナ、こういう能力がある人はね、自分の言葉を信じてもらおうとしないこと。そこは頭を切り替えて妥協しなくちゃ。相手が自分のハートを信じてくれて、自分の言葉を実行してくれるなら、それで十分なんだよ。パパが今そうしているようにね。さあ行きましょう」
 はあ? 私のハートを信じるだって。どういう意味よ。でも……多分……何も信じないよりまし、だよね?
 ジョン・レノンは私のハートを信じて、十二年後にニューヨークに来るのをやめてくれるかな。私が見る未来は、変えられるんだから。もしそうなら、一言たりとも私の言葉を信じない人たちとも一緒に生きていける。
 「おいニーナ、ぼくの未来を占ってみて!」帰宅すると、兄さんはそういって私をからかう。

 1968年にブラチスラバで暮らしていた人々の話を元にしているが、登場人物の名前や経歴などはフィクションである。
 1968年8月21日夜、ワルシャワ条約機構軍(ソ連、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー)が、改革が進み西側に開かれつつあったチェコスロバキアに侵攻。兵士たちは市民を助けるためだと聞かされており、中には最後まで真実を知ることがなかった者もいた。1968年末までにチェコスロバキアでは108人が殺され、そのうちの3人はスロバキアのブラチスラバにある大学校舎前で命を落としている。上記以外の国は侵攻しないと決定。その後数年間でおよそ8万の人民がチェコスロバキアから国外に脱出した。留まった人々は警察権力による監視と恐怖に満ちた年月を送ったが、1989年、ベルリンの壁崩壊とチェコスロバキアのビロード革命により時代の幕が閉じられる。1991年、ワルシャワ条約機構軍の最後の兵士がチェコスロバキアから撤退。