ヨーロッパへの窓

★★★★★★

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ポーランド ポーランド

『ソラリス』より

excerpt from Solaris

スタニスワフ・レム

Stanisław Lem

スタニスワフ・レム(1921年9月12日〔または13日〕ルヴフ〔現リヴィウ〕生まれ、2006年3月27日クラクフで死去)――ポーランドSF最大の作家、哲学者、未来学者、エッセイスト。

ポーランド共和国下院の決定により、本年はレム記念年を祝っています。

レムの作品は、科学技術の発達、人間の本質、知的生命間の相互理解の可能性、宇宙に占める人間の場所などのテーマを取り上げています。ユニークなユーモア感覚に恵まれ、それによって世界中の読者から称賛されています。

彼の著作は40以上の言語に翻訳され、総発行部数は3千万部を超えています。またアンドレイ・タルコフスキー、アンジェイ・ワイダ、スティーヴン・ソダーバーグなどの監督によって、たびたび映画化されてきました。『ソラリス』『インヴィンシブル』『泰平ヨンの航星日記』『電脳の歌』『ロボット物語』などの小説は、SF文学の永遠の古典となりました。

彼は自作の中で、文明の技術的発展のマイナスの影響に警告を発し、その理論的著作と未来予想は宇宙における人類の場所を規定し、人類の運命を予測することに重要な影響を与えています。
9月12日には、国書刊行会から<スタニスワフ・レム・コレクション>第Ⅱ期が刊行開始。9月下旬の『インヴィジブル』を皮切りに、計7冊が発売予定です。
https://www.kokusho.co.jp/special/2021/08/post-17.html

スタニスワフ・レム『ソラリス』
国書刊行会および早川書房(ハヤカワ文庫SF)刊

『ソラリス』より「ハリー」

スタニスワフ・レム
沼野充義 訳

 物語 惑星ソラリスは不可解な海に表面を覆われていて、人類はその謎の解明のために、惑星の上空に宇宙ステーションを作り、研究員を送りこんで長年にわたり研究を続けていた。このステーションに新たに派遣された心理学者クリス・ケルビンのもとに突然、妻のハリーが現れる。ハリーはここにいるはずがない。そもそも彼女は十年前に自殺しているのだ。これは海の仕業なのだろうか?

「ハリー?……」

「なあに、あなた?」

「ぼくのいる場所がどうしてわかったんだい?」

彼女は考え込んだ。そして、微笑んで――彼女の唇は暗い色をしていて、桜ん坊を食べてもそれとわからないほどだった――歯の先端をのぞかせた。

「わからない。可笑しいわね。わたしが入ってきたとき、あなたは眠っていたけれども、起こさなかった。起こしたくなかったの、あなたはすぐ怒るんですもの。怒りんぼの、嫌な人」彼女はそれらの言葉に拍子を合せて、私の手を上に勢いよく投げ上げた。

「君は下にいたの?」

「いたわ。下から逃げ出してきたの。あそこは寒いんですもの」

彼女は私の手を放した。そして横に身を倒しながら、髪の毛が全部片側に垂れるように頭を後ろに一振りし、うっすらと笑いを浮かべて私を見た。そういえば、このうっすらとした笑いに私は最初のうち苛々させられたものだ。彼女のことを愛するようになったとき、ようやく苛々させられなくなったのだった。

「でも……ハリー……やっぱり……」私は口ごもった。

彼女の上に身をかがめ、ドレスの短い袖をまくってみた。小さな花に似た種痘の印のすぐ上に、針を刺した小さな跡が赤く見えていた。私はそれを予期していたとはいえ(というのも、私はずっと、あり得ないことの内にも何らかの論理のかけらがないものかと探していたからだ)、それを見て吐き気を感じた。私は指でその注射の跡の小さな傷に触った。その注射のことはその後何年も夢に現れ、しわくちゃになったシーツの上で私はうめき声を上げながら目覚めたものだった。目覚めるときはいつも同じ格好で、ほとんど二つ折りになったように身を縮めていたのだが、それはすでにほとんど冷たくなった彼女の体を私が見つけたとき、彼女の寝ていた格好と同じだった。私は夢の中でも、彼女と同じことをしようと努力していたのだろう。まるでそうすることによって彼女の記憶に許しを乞おうとするかのように、あるいは彼女が注射の作用をすでに感じ、怖い思いをしていたに違いない最後の瞬間を彼女とともに過ごそうとするかのように。なにしろ、彼女はごく普通の怪我や傷でさえも怖がり、痛いことはもちろん、血を見ることさえも絶対に耐えられなかったのだ。その彼女が突然、私宛のカードに五つの言葉を残して、あんなに恐ろしいことをするなんて。私はそのカードを書類の間にはさんで、いつも持ち歩いていた。カードはぼろぼろに擦り切れ、折り目に沿って破れかけていたけれども、それと別れる勇気がなかったのだ。私は何千回も、彼女がそれを書いていた瞬間に、そしてそのとき彼女が感じていたはずのことに戻った。彼女はあんなことをすると見せかけて、私をびっくりさせたかっただけだ、ただ注射する薬の量が――うっかり間違えて――多すぎただけのことだ。私は自分にそう言い聞かせた。他の皆も、きっとそうだったのだろう、そうでなければ、鬱状態、それも突然襲ってきた鬱状態によって引き起こされた瞬間的な決断だったに違いない、と私に信じ込ませようとした。しかし、皆は知らないのだ――私がその五日前に彼女に何を言ったのかを。しかも、私は彼女をできるだけ手ひどく傷つけようと、荷物まで持って出たのだった。私が荷物をまとめているとき、彼女はこの上なく落ち着いた様子で「それがどういうことだか、わかっているのね?……」と言った。私はわかり過ぎるくらいわかっていたけれども、とぼけてわからない振りをした。それどころか、彼女を臆病者だと見なして、そのことも面と向かって言ってしまったのだ。ところが、その彼女がいま、ベッドを横切るように体を横たえ、注意深く私を見つめているのだ――まるで、私に殺されたことを知らないかのように。

「それだけなの、あなたにできるのは?」と、彼女は尋ねた。部屋は陽の光のせいで赤くなり、彼女の髪の毛の中にも微かな光がくすぶって見えた。彼女は自分の腕に目をやった。私があまりに長いことじろじろ見ているものだから、その腕が突然、なんだか重要なものに思えたのだろうか。私が手を離すと、彼女はその上に冷たく滑らかな頬を載せた。

「ハリー、まさかこんなことが……」と言う私の声は、しわがれていた。

「止めて!」

彼女は目を閉じていたが、その目が張りつめたまぶたの下で震えるのが、私には見えた。黒いまつげが頬に触れている。

「ここはどこだろう、ハリー」

「うちよ」

「うちって言うと?」

彼女の目の片方が一瞬開いたが、またすぐに閉ざされた。まつげが私の手に触れてくすぐったかった。

「クリス!」

「何?」

「いい気持ちよ」

私は彼女を見下ろすように座って、身じろぎもしなかった。ふと首をあげると、洗面台の上の鏡にベッドの一部と、ハリーの乱れた髪と、私のむきだしの膝が見えた。床に転がっている、半ば融けてしまった道具の一つを足で引き寄せ、自由なほうの手でそれを拾い上げた。その道具の先端は尖っていた。私はそれを自分の太ももの、半円の対称形の傷跡が薔薇色に見えている場所の真上に当て、突き刺した。激痛が走った。私は流れ出した血を見つめた。血は大きな滴となって太ももの内側の表面を伝い、静かに床にぽたぽたしたたり落ちた。

無駄な試みだった。脳裏にうごめく恐ろしい考えがますますはっきりと形を取るようになり、私は自分に「これは夢なんだ」と言い聞かせることをすでに止めていた。だいぶ前から、夢だとは信じられなくなっていたのだ。そして、いまや、「自分の身を守らなければいけない」と考えていた。私は白い生地に覆われた彼女の背中から膨らんだ腰へと目を走らせた。彼女は素足を床の上にだらんと垂らしていた。その足に私は手を伸ばし、バラ色のかかとを軽くつかみ、足裏を指でなでてみた。

それは、生まれたばかりの赤ん坊のように柔らかかった。

いまや私には火を見るよりも明らかだった――これはハリーではない。そして、もう一つ、ほとんど確信できたのは、彼女自身がそれを知らないでいる、ということだった。