ヨーロッパへの窓

★★★★★★

Windows to Europe

アイルランド アイルランド

鷺が群れなす川に沿って

from Dinosaurs on Other Planets

ダニエル・マクロクリン

Danielle McLaughlin

ダニエル・マクロフリン

アイルランド・コーク県在住。短編集『Dinosaurs on Other Planets』の著者。The New YorkerThe Irish TimesThe Stinging Fly、さまざまなアンソロジー等に作品が掲載されている。ウィンダム・キャンベル賞、ウィリアム・トレバー/エリザベス・ボウエン国際短編賞、ウィルズデン短編賞、メーヴ・ビンチー記念メリマン短編賞、ドロミニア文学祭短編賞など数々の文学賞で受賞歴がある。

2013年、アイルランド文化庁の助成金授与。デビュー作である短編集『Dinosaurs on Other Planets』を2015年にアイルランドでThe Stinging Fly Pressより出版し、翌2016年に英国でJohn Murray Pressより、アメリカでRandom Houseよりそれぞれ出版。本作は2016年にSaboteur賞で最優秀短編集に選ばれた。2019年にはウィンダム・キャンベル賞フィクション部門を受賞。2018年~2019年にかけてアイルランド国立大学コーク校のライター・イン・レジデンスとなる。2019年にはThe Sunday Timesオーディブル短編賞を受賞。長編デビュー作『The Art of Falling』を2021年1月にアメリカでRandom Houseより、2月に英国とアイルランドでJohn Murray Pressより出版した。

鷺が群れなす川に沿って

ダニエル・マクロクリン
福間恵 訳

 彼は手袋をはめた両手で霜取りスクレイパーを握り、フロントガラス全面を何度もこすった。氷の粒子の霧が舞い上がり、車のボンネットに降ってきた。まだ暗いが、陽は昇り始め、白い大地を薄いピンクに染めていた。あたり一面、大地は固く、しんとしていて、彼らの地所を隣家の農場から隔てる用水路も、ガサガサの草と銀色に覆われていた。遠くに川の護岸の木立と、パウダースノーを振りかけたその枝々が見えた。一羽の鷺(さぎ)が小さな観賞用の池のほとりに佇み、凍った水面をくちばしでつついている。先週の土曜日、キャシーは車で町に出かけ、鯉を6匹手に入れて戻った。数匹はブロンズと紅茶色のまだらで、他は灰色。彼が見守る中、その鯉たちをキャシーが池に放ったが、ボーっとしたり驚いたり、魚の反応は様々だった。彼が霜取りスクレイパーを放り出し、両手をぱんと叩くと、鷺は身を起こして飛んで行った。
 屋根窓がある家屋は川を臨んだ南向きで、窪地に建っていた。彼が立っている敷地内の私道から見ると、屋根に氷柱がくっつき、明かりの灯る窓も四隅が曇って円形になっていて、まるでクリスマスのオーナメントのようだった。ガウンを着たキャシーがグレイシーをおんぶして台所を行き来し、朝食を作っているのが見えた。
 「少しは眠れたかい?」さっき、彼はそう訊ねた。
 「ええ、たっぷりと」と彼女は答えた。だが、夜中に彼女がベッドからこっそり出ていく気配がしたし、階下に下りていく足音も聞こえた。カースルアイランドに住む姉のマーサに電話するのはわかっていた。こんな夜更けの電話をマーサがどう思うのか、それはわからなかったが、マーサが彼と話すのは、キャシーかグレイシーに関して必要な時だけ、それさえ渋々だし、あとは月に一度、保育園の費用として彼女が小切手を送ってくるだけだ。
 フロントガラスの霜取りを終え、車を温めようとエンジンをつけっぱなしにして家に入った。玄関で濡れた手袋を脱ぎ、乾かそうとスチーム暖房の上に載せた。妻と娘が台所で、「ちっちゃなクモさん」を歌っているのが聞こえてきた。窓越しに彼が見つめる二人は、ガラスの模様で歪んだ姿になっていた。キャシーがポリッジを作っている。鍋の縁に木のスプーンをのせ、床近くまでかがんで腰を振ると、ガウンがテントのようにグレイシーを包みこんだ。グレイシーはキャッキャと声をあげ、身をくねらせテントから出てきたが、すぐに再び中にもぐりこみ、ガウンを引き寄せしっかりくるまった。ボタンの合間から顔を突き出し、くすくす笑っている。彼が部屋に入っていくと、シューッという低いパンク音のように、何かが漏れ出ていくのを感じた。
 キャシーは娘をまたいで台所を横切り、彼の頰にキスをした。目の下に隈ができている。彼の両手を取って包み込み、その冷たさに顔をしかめながら優しくさすった。
 「ひどい天気?」彼女は窓の方に顔を向けて言った。
 「かなりね。保育園に行くときは用心しないと」
 「それまでには溶けるでしょう。コーヒーいる?」
 彼は首をふった。「会社で飲むから」
 母親を取り戻しに、グレイシーが台所からよちよち歩いてきた。キャシーが抱き上げると、グレイシーは岩に張りつくカサガイのようにキャシーの首にしがみついた。ガス台の上で、鍋の中のポリッジがふつふつ音を立てた。「僕がやるよ」振り返ったキャシーを見て、彼は言った。「座ってて」
 深皿二つにポリッジを取り分けて、テーブルまで運んだ。キャシーは足をバタつかせて抵抗しているグレイシーを、ハイチェアに下ろして座らせ、ストラップを止めた。「マーサのところから、何日か遊びにいらっしゃいと言われたの」とキャシーは言った。
 彼は、キャシーの横の椅子を引いた。「いつ?」
 「来週がいいんじゃない、って。お祭りがあって、いとこも何人か集まる予定なんだって」ポリッジに牛乳を少しかき混ぜながら足して、スプーンですくってそっとフーフーしてから、グレイシーの口元に持って行く。我が子が口をしっかりと閉じ、小さな身体をよじって顔をそむける姿を彼は見守った。
 「どうかな」と彼は言った。「あっちに二人だけというのは心配だよ」
 「二人だけじゃないわよ、マーサも一緒なんだから」彼女はグレイシーのあごに手をあてて、徐々にスプーンの方に向かせた。「あなたも週末に来て、2、3日一緒にいたらいいじゃない」
 「と、マーサが言ったのかい?」マーサが自分のことをどう思っているかはわかっていた。こっちも同じ気持ちでいるのだ。
 「マーサはいつも私たちに、遊びに来てと言ってるでしょ」
 きみにだよ、と彼は思った。マーサはいつもきみに遊びに来てと言っているんだ。ちょうどその時、グレイシーがほっぺの中に隔離していた一口分のポリッジを放出した。彼が見守る中、キャシーの手がさっと動き、うまくスプーンで受け止めた。彼女の分のポリッジは手つかずのまま、冷えて灰色の円盤状に固まっていた。
 「さあ」スプーンに手を伸ばして彼は言った。「僕がやるから、自分のを食べて」だが彼女は首を横に振った。
 「大丈夫よ。それに、もう出勤しないといけないでしょ」
 彼は椅子から立ち上がり、窓辺に行った。外は、東から日の光が広がってきている。庭は釘を並べたように葉が落ちた植物の茎が突き出し、野積みにして発酵させている刈った芝草の山が、白い帽子を被ってフェンスにもたれかかっていた。一晩出しっぱなしのグレイシーの三輪車も凍てついて、あちこち紫色が斑点のように顔をのぞかせていた。
 二人がこの地所を見つけたのも、こんな風にしんとして一面真っ白な朝だった。その前日の夕方にダブリンからやってきて、15キロほど向こうの村にたった一軒しかないB&Bに泊まり、薄いシーツとごわごわの毛布の下で、彼は用心しながらキャシーと愛を交わした。彼女は妊娠初期だった。彼女の中に入った彼には、赤ん坊を傷つけるのではないかという、初めて味わう遠慮と心配があったが、その時我が子は非常に安全で、非常に守られた状態にあることが彼にはわかっていなかった。翌朝、二人はこの地所で競売人と会った。あたり一面の農地は、霜のジュエリーがついたウェディングドレスのような、ひだ状に連なった白い丘に抱かれていた。寒さに羽をぷっくり膨らませた小さな黒い鳥たちが、生垣を入ったり出たり、飛び回っていた。
 「こんなにきれいなもの見たことある?」と、キャシーはささやいた。「ナルニア国みたい」
 「ここなら暮らせると思う?」競売人の後ろを歩き、小道に停めた車に戻る道すがら、こう訊いたのを彼は覚えている。「ええ」と彼女はその時答えた。「ええ、暮らせると思う」
 腕時計を見ると、8時近くになっていた。キャシーにキスしようと近寄り、彼女がこちらに顔を上げたとき、スプーンからポリッジがすべって、ハイチェアのミニテーブルの上に落ちた。グレイシーはそれをしげしげと眺めて、指でつつき、ぐるぐるとミニテーブルの上で円を描いた。キャシーはちょっと肩をすくめただけで、ガウンの袖でポリッジを拭き取った。朝によっては、彼女が何とか彼を喜ばせようとしていることに、幸せを装っているのが透けて見えることに、いたたまれない思いをすることもあった。今朝の彼女はいつもより肩の力が抜けていて、明るく、行ってらっしゃいと言う笑顔にもそれほど無理はなかった。
 だが数分後、車に座ってキーをイグニッションに差し込むと、キャシーは玄関口に現れた。薄い布製のスリッパを履き、砂利敷きの私道をそろそろと歩いて来て、寒さを防ごうと両腕を体に巻きつけていた。
 「今月は、マンチェスターに行かなくてもいいのよね?」ウィンドウを下ろすと、彼女はこう訊いた。
 「うん」と彼は答えた。「そうだと思う」手を振って見送る彼女の顔に、安堵の色が見て取れた。
 車は門を出て、水たまりにできた氷の膜を砕きながら小道を進み、角を曲がって幹線道路に出た。トゥーミーの橋にさしかかると、歪んだフェンダーとサイドパネルが骨を思わせる白味を帯びて道端に放置されていた。古代シルクロード沿道に残されたしゃれこうべのごとき、後続の旅人たちへの警告。携帯電話はダッシュボードの上にあった。見えるところに置いておくのが好きなのだが、鳴らないのはわかっていた。いったん川沿いの道路に入れば、二車線の車道に出るまでは圏外なのだ。この川の道は、二つの世界の出入口だった。一方は自宅、もう一方は町、その間のどこにも属さない、妻と娘に彼の手が届かない空間であり時間である。
 霧が川から立ち上り、黒くうつろな木々の中を幽霊のように通り抜けていった。川岸に生息する鷺がこぞって姿を現しており、か細い脚で立っていた。長くカーブした首を前に突き出し、立ったまま静止している様は、草木同様、凍りついているようだった。路面は凸凹が激しかった。毎年春になると、役所が作業員と機械を寄こし、トラックに積んだアスファルトで舗装し直す。そして毎年冬になると、それをまた川が引きはがすので、2月の頃には幹線道路というより未舗装の道同然だった。
 彼の会社は、町の中心に建つ、正面の四角い1970年代築のビル内にあった。ガムのあばたと漂白剤の染みが残る階段は、様々な金融商品の広告が貼られたロビーへと続く。上司のカーヒルがエレベーターホールで待っているのを目にした彼は、階段を使うことにした。カーヒルの我慢が限界に達しかけているのはわかっていた。前々から彼と話そうと考えていたが、いつも間が悪く思えて、そうこうしているうちに時期を逸した気がした。最近は話しかけてくるカーヒルの口調に変化が認められたし、廊下や社員食堂ですれ違っても、目をそらされることが多かった。
 彼のブースは5階の、床から天井まで一面ガラス窓になった、大きな長方形の部屋に位置していた。オフィススペースを階段ホールや社員食堂から隔てる仕切りもガラス張りだった。パソコンのスイッチを入れると、翌週に予定されたマンチェスター出張に関するカーヒルのメールが、自分のところにも届いていると知った。「返信」をクリックし、2行ほど打ち込んで、はたと手を止めた。何も打ち込まずに、そのまましばらく画面を凝視していたが、「下書き」ボックスにセーブして、後で続きを書くことにした。
 食堂でコーヒーを淹れ、マグカップを持ってデスクに戻った。隣のブースの女性がパーテーション越しに顔を出す。「カーヒルが探してたわよ」歌を歌うような、舌足らずな口調が癇に障ったが、彼女は言い終えると仕事に戻り、キーボードの上を走るつけ爪のカチカチという音が響いた。メールを開き、カーヒルへの返信の続きに戻った。書いた内容を読み返し、一言二言加えて閉じてから、別の仕事に取りかかった。
 11時35分に携帯電話が鳴った。マーサだ。「心配してんのよ」と彼女は言った。
 マーサには、職場はオープンプランのオフィスだと何度も伝えてあった。
 「ちょっと待って」と彼は言い、立ち上がってロビーに出た。電話口にいるマーサを思い浮かべた。待たされてムッとして両の頰をすぼめ、カーディガンのボタンさえ気に食わないかのように強く引っ張っている。エレベーターと掃除道具棚の間に、狭い窪まった場所があった。壁に身体をぴったり押しつければ、彼の方からはガラス越しに自分のブースが見えるが、彼自身は人目につきにくいことがわかっていた。
 「いいよ」と彼は言った。「続けて」
 「最近何か気づいたことは?」
 「取り立てて言うほどのことは何もないけど」
 「ということは、何か気づいていたわけね」
 キャシーを愛することでは同じ二人が、なぜこうも嫌い合えるのか、彼には不思議だった。「近頃はジョギングに行かないけど」と彼は言った。「それは主に天気のせいだから」
 「他には?」
 いじくるしぐさがだんだん乱暴になって、カーディガンのボタンが飛び、台所の床を転がっていく様を彼は思い描いた。目を閉じて、深いため息をついた。自分はいま、妻を裏切ろうとしている。「2回ほど薬を飲まなかったけど、たった2回だけだよ。あと疲れてもいるけど、何しろグレイシーが最近ずっと手に負えないからね」
 一瞬沈黙があり、それからマーサが切り出した。「グレイシーは今日、保育園に行ってない」
 「どうしてそれを?」
 「保育園に電話して、そう言われた」
 「なんできみが保育園に電話するんだ」
 「しじゅう電話してるわよ」とマーサが言った。「誰かがしなきゃなんないでしょ。先週キャシーが2回もグレイシーのお迎えを忘れたこと、あなた知ってる? 来ないから、保育園が電話してきたのよ」
 「たぶん遅れただけだよ」と彼は言った。「遅れたのと忘れたのは違う」
 「その遅れは、1時間以上ですけどね。そして昨日は? 保育園がグレイシーを着替えさせた時。服がすごく汚れてたのよ。汚れて、片側の縫い目がほつれてて、肌着もつけてなかったって言うじゃない」
 彼は戸棚の側板に額を預け、漂白剤と消毒剤のにおいを吸い込んだ。これまでずっと、妻に関する何もかもが彼女の手から奪われ、ギラギラした人工的な明かりの下にさらされてきた。失敗が一つ残らず、ビックリハウスの鏡の前に陳列されて、拡大され、形を歪められ、一番些細な過ちまでもが大惨事のように言い立てられてきた。「それ全部、保育園の人がきみに話したわけ?」と彼は言った。「保育園にそんなこと話す権利はない。プライベートなことなんだから」
 「プライバシーなんて知ったこっちゃないわ。とにかくあなたの娘は今日、保育園に行ってない。まずそこから考えてよね」
 戸棚越しに、カーヒルがブースの迷路を縫うようにして、彼のデスクへと向かっているのが見えた。デスクに来て、空っぽの椅子の背に両手を置いて、周囲を見渡している。
 「聞いてた?」マーサが言った。
 「グレイシーが登園してないのは確かなのかな?」
 「当り前よ、そんなの決まってるじゃないの。子どもが来たらサインするし、帰るときもサインする。あなたの娘は園にいない」
 カーヒルがデスクの上にかがんで、何かを走り書きしている。「キャシーに電話してみるよ」と彼は言った。
 「私が電話してないとでも思ってんの? この1時間、ずっとかけてたわよ」
 「2階にいたのかもしれないよ、それで電話が聞こえなかったのかも。グレイシーが保育園に行っている間に、風呂に入ることもあるんだ」
 「だからさ」とマーサは言った。受話器を握る力がどんどん強くなって、彼女の指関節が白くなっていくのを彼は思い描いた。「グレイシーは保育園にいないんだってば」
 「10分待ってから、電話してみるよ」
 「じゃあ、結果を知らせてよね」
 「そうするよ」と彼は言った。そして「ありがとう、マーサ」と言ったが、既に電話は切れていた。
 キャシーの携帯の番号にかけたが、留守番電話になっていた。家の電話も呼び出し音だけだった。デスクに戻ると、隣のブースの女性がまたもやパーテーション越しに顔を出した。「カーヒルが」そう言って、彼のパソコンの画面に貼られたポストイットをあごで指した。彼はそれをはがして読んだ。マンチェスター出張についてのランチミーティングに、先月の数字を持って来るように、とのことだった。彼はメモを丸めてゴミ箱に捨てた。もう一度キャシーの番号にかけてみた。そうこうしているうちにグレイシーが到着したか、保育園に確認しようかとも考えたが、やめにした。
 4階まで階段で下りて、資料を集めてから戻ると、席を外している間にまたマーサから電話があったとわかった。彼はフロアを見渡した。カーヒルが少し離れたところに立っていて、IT担当の一人と話をしていた。再びロビーに出て、マーサの番号にかけたが応答はなく、キャシーに電話した。やはり応答がなかったので、彼はデスクに戻って椅子の背から上着を取り、会社を後にした。
 車を走らせて町を抜け、戦争記念碑のまわりで寒さに震えている観光客たちを横目にし、帽子を被りマフラーを巻いた母親たちがベビーカーを押しながらお喋りしている公園を通り過ぎ、二車線道路に入った。川沿いの道路に折れるとまもなく、マーサが電話をよこしたが、回線が安定せず、バチバチと雑音がして、何も聞こえなくなった。雨は降っていなかったが、頭上の枝から水滴がパラパラと音を立ててフロントガラスに絶え間なく落ちてきた。自然は一気にその扉を開いていた。雪解けが始まり、ひとたび始まったら止めるものは何もなかった。土手沿いの木々から氷柱が溶け出して、洪水の時に幹に巻きついた、破れたビニールなどのごみを露わにしている。銀のめっきは剝がれた。白が後退し、汚れた茶色と、ウドンコ病になった葉っぱのような色を残した。低い位置の枝に引っかかっている一つのビニール袋には、川の水が入っていて、その重みで垂れ下がっていた。彼は子どもの時に祖父母の農場で過ごした一夏を思い出した。小川のほとりに、水を入れて口を縛った袋があるのを見つけた。開けてみると、中にはぬるぬるした、毛がなく、目をしっかり閉じた子犬が6匹入っていたのだった。

 昨年11月にあったある出来事は、マーサには内緒にしていた。きっとキャシーも姉には言ってないのだろう。なぜなら、もしマーサが知ったら、今頃キャシーとグレイシーはカースルアイランドに住んでいるだろうし、川向こうの上のあの家に彼が一人で住んでいるだろう。ある日の夕方、帰宅すると玄関は開けっぱなしになっていて、風で玄関に落葉が吹き荒れていた。「キャシー?」彼はブリーフケースを床におろして妻を呼んだ。台所では小麦粉の袋が食器棚から引っ張り出され、逆さまになっていた。テーブルの下にいたグレイシーはおむつ一丁の姿で、フォークでジャム壜の中をつついて、床になすりつけていた。完全にその作業に没頭していて、しんとした台所はフォークでタイルを叩く音だけが響いていた。顔を上げて自分の父親を認めたとき、ようやく彼女は大声で泣き出した。「ママはどこ?」彼はそう訊きながら娘を抱き上げ、部屋から部屋へ見て回ったが、泣き声は激しくなるだけだった。
 洗濯かごからグレイシーの服を引っ張り出して着せて、階段下から懐中電灯を持ってきた。キャシーの携帯電話は台所のテーブルの上にあり、彼女の車は私道に停められていた。まずは庭をざっと探したものの、そこにいるとは思っていなかった。納屋を確認したが、いつも通り外側から南京錠がかけられていた。グレイシーは暗くなった屋外のもの珍しさに気を取られ、泣き止んでいた。彼の前をよちよちと歩き、懐中電灯の光の輪を追いかけ、光を踏もうとするみたいに飛び跳ね、自分の足元から光がそれると金切り声をあげた。彼は隣の農場に用水路をまたいで入ってから、グレイシーを抱き上げて渡らせた。肩車にしたグレイシーを片手で支えつつ、もう一方の手に持った懐中電灯で暗い草地をなでるように照らしながら、畑から畑へと進んだ。
 農場から道路を渡って川辺の湿地に来た。夜の田園は違う生き物だった。ぬかるんだ土が足元でクチュクチュと靴を吸おうとし、羽虫の群れが空を舞っていた。川に近づいて行くと、前方に何かが動いているのが見えた。木立のはずれで、重そうに動いている黒々した物体。牛の群れだ。その体の白いまだら模様が、亡霊のように暗闇から浮かび上がった。牛たちは輪になって集まり、頭を低く垂らして、鼻からさかんに湯気を出している。「モー!」グレイシーが叫んだ。「モー! モー!」牛たちがうろたえて左右に分かれると、金属製の飼い葉桶に腰かけているキャシーの姿が現れた。周囲の地面は牛の蹄で踏み荒らされてドロドロになっていた。スカートと半袖のブラウスにスリッパという格好のキャシーは、近づいてみると、両腕両脚はイバラのひっかき傷があり、足首に切り傷があって出血していた。キャシーは彼を見上げてから、顔をそむけた。その晩、彼女の身体を洗ってやり、傷口を消毒した後も、ベッドに寝かせて、眠っているグレイシーをその丸まった腕の中に預けた後も、キャシーは依然として彼の顔を見ようとはしなかった。

 リンドン交差点を通り過ぎる際、スリップしてセンターラインを越えた車を、彼は慌てて元の軌道に戻した。一羽の鷺が羽を広げて飛び立ち、木立の中を低空飛行して、道路に出てきた。あまりに近くを飛んでいるので、フロントガラスにぶつかるのではと思ったが、じきに鷺は高度を上げ、しばらく車の前を飛んだ。そのもの言わぬ先導者はやがて再び高く、あれほど大きな鳥には似つかわしくないほど高く飛んで、雑木林の向こうに消えた。片手を顔にやった彼は、自分が泣いていると気づいた。家にたどり着いて二人が無事だったら、もう二度と離れない。ずっと一緒にいて、会社には行かない。カーヒルなんか勝手にやらせておけばいいんだ。カーヒルがどう思うとか思わないとかは、もうどうでも良かった。カーヒル以上にどうでもいいことなんて想像もできなかった。僕らは何とかする、僕が何とか道を見つける、マーサとも話をする。
 自宅の私道に入ると、池のまわりの地面が荒らされているのが見えた。赤粘土の芝土が、芝生から掘り返され、緑色の葉身が頭皮のような白い草を突き刺していた。納屋から木製の支柱がいくつも出され、つるはしの横に積み上げられていて、金網が一巻き、研磨剤のそばに放置されていた。彼は車を停めて外に出た。池自体も泥と芝生のごたまぜ状態で、あまりに濁っていて魚は一匹も見えなかった。周囲のコンクリートにはいくつかひびが入っており、脇の地面はじめじめして、ゆっくりと水が染み出していた。家の方を見やって、キャシーの車がないことに気づいた。
 彼は自分の呼吸音を意識し、車のエンジンが停まるカチカチ、ブルブルという音を感じた。水中にいるような、とてつもなく大きな、吸い込まれそうな波に必死で抵抗するような思いだった。と、そこへ、家の角を回ってグレイシーが転がるように出てきた。芝生を横切り、濡れた草の上ですべって転び、また立ち上がった。裑(みごろ)は赤く、袖がピンクのパフスリーブになったワンピースを着て、ベルトをパタパタとはためかせ、足にはティンカーベルのサンダルを履いている。彼は走り寄り、今朝、家に残して来てしまったこの子を、何事からも何者からも守ることが彼の責任であるこの子を、両腕で抱き上げた。抱きしめ、あまりにきつく抱きしめすぎて、グレイシーがおしゃべりする声が彼のシャツの中からくぐもって聞こえた。娘の髪から頰を上げると、キャシーがこちらに向かって庭を歩いて来るのが見えた。グレイシーが転んだ時に脱げた片方のサンダルを手にしている。
 「なぜ帰ってきたの?」と彼女は訊いた。ゴム長を履き、昨年のいとこの結婚式用に買った、薄っぺらな生地に青と黄色のオウムの模様がついた夏物ワンピースを着ている。今ではそれがすっかりガバガバになって、鎖骨も皮膚を突き破りそうなほど浮き出ている、と彼は思った。
 「ファイルを忘れたんだ」彼は答えた。
 「こんな日に災難ね」と彼女は言った。「道路はひどいし。だから保育園にも行かなかったの、そうよね、グレイシー。幹線道路の手前まで行って、戻ってきちゃった」
 「車はどこなの?」
 彼女はサンダルを娘の足にそっと戻して、バンドを留めているところだった。「裏の納屋のそば。支柱を動かすのに使っていたのよ、重すぎて運べなかったから」
 グレイシーがもぞもぞと、彼の腕の中から抜け出て、池の方へ向かった。「おさかなさん、かわいそう」そう言うと、グレイシーは池のまわりのコンクリートにひざまずき、水中に腕を突っ込んで、服の袖を肩まで濡らした。そして灰色の魚の死骸を持ち上げ、しっぽをつかんで、振り子のようにぶらぶら揺らした。
 「またあの憎たらしい鳥が」とキャシーが言った。娘から魚を取り上げ、芝の上に置いた。「窓からあいつが見えたから、走って出たのよ」彼女は、魚の鰓のすぐ下にある深い傷を指さした。「あいつは魚を落としたけど、遅すぎたわ。あと2匹見当たらない。3匹かも」
 「とりさん、ひどい。とりさん、ひどい、ほんとにひどい」グレイシーはそう言って、地団太を踏んだ。
 今は冬なんだよ、鳥はいつもやっていることを、やらなくてはならないことをやったまでなんだ、と彼は言いたかった。どのみちこんな何もわからない鯉には、ここの川の魚さえ生きのびるのに苦労するこの荒涼とした場所は無理だったのだ。キャシーが斧を取り上げた。「何をやってるんだ?」彼が声を上げた。
 「魚を守ってあげるの。檻を作るのよ、動物園みたいに。そうよね、グレイシー」キャシーは斧を振り下ろし、芝生に刃先が食い込むと、柄に体重をかけてこの要領でもう一塊の芝土をはぎ取った。土をひっくり返すと、下側のもつれた根が露わになった。コートはおろかカーディガンさえ羽織っていないキャシーの両腕は紫色になり、鳥肌がたっていた。グレイシーもそうだ、と彼は気づいた。ワンピースの裾が池の中に垂れて、濡れた部分が上に向かって染み出している。
 「いったんやめて、中へ入ろう」と彼は言った。
 キャシーは芝生を掘り返す手を止めた。自分を見返す彼女に、混乱した、彼を怒らせていないか推し量ろうとする表情が見て取れた。「いいんだよ」と彼は言った。「寒いからさ、それだけだよ。あとでやればいいさ」彼はグレイシーの手を取り、家へと歩き出した。キャシーが彼の横に並んだ。
 「さっき電話したんだよ。何回かかけたんだ」
 「そうだったの? 午前中はほとんどここにいたから。そうよね、グレイシー」
 グレイシーは母親に向かって神妙に頷いた。「おさかなさん、かわいそう」またそう言った。
 玄関口でキャシーはゴム長を脱ぎ、踏み段の上に置いたままにした。「ずっと考えてたんだけど」とキャシーは言った。「保育園のこと。毎月マーサに工面してもらってるのは、結構な額でしょ。それにもういらないんじゃない? つまり、私はもう元気になったし、自分でできるわよ」彼女は娘の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。「今朝は楽しかったよね。ママとグレイシーの二人きりで」
 「保育園のこと、今決めなくてもいいよ」と彼は言った。「週末ゆっくり話そう」
 家に入ると、グレイシーは母親を追ってよちよちと進んだ。彼はちらっと腕時計を見て、マンチェスターの会議が始まる頃だと思った。
 「せっかく帰ったんだから、お昼を一緒に食べたら」とキャシーが言った。
 「そうだよな」と彼は言った。「そうするよ」
 2階の寝室で上着を脱ぎ、ベッドの上に放り投げた。奥のバスルームに入り戸棚を開け、キャシーの薬箱を取り出した。包装材に入った錠剤を数える。ぴったりだ。多くもなく、少なくもない。パシャパシャと水で顔を洗ってから、しばらくベッドに横たわり、目を閉じた。上着のポケットで携帯電話がブーッと鳴った。メッセージは3件あった。社内の旅行課から来たのは、フライトとホテルの予約確認。マンチェスターで3泊、それから事前に言われてなかったが、バーミンガムで2泊。マーサからのぶっきらぼうな留守電メッセージは、キャシーの様子を見にそっちへ行くと告げていた。もう1件がカーヒルで、お前は一体どこにいるんだと詰問していた。彼は電話の電源を切り、上着のポケットに戻して階下へ下りた。
 台所では、キャシーがフライパンで玉ねぎと角切りベーコンを炒めていた。「オムレツを作ろうと思ったの」と彼女は言った。「会社にすぐ戻れるように、何か手早く作れるものを」彼女は自分の脇にあるスツールの上にグレイシーを立たせて、娘の袖をまくり上げた。グレイシーがボウルの縁で卵を一つ割るのを彼は見守った。卵の半分はボウルの縁からすべってカウンターに落ち、残りは殻まみれになってボウルの中にするっと落ちた。キャシーは卵に一本指をくぐらせ、殻のかけらをすくい出した。材料を集めながらガス台と食器棚の間を行き来する彼女には決然とした朗らかさがあり、もう一つ玉ねぎを切る手つきには断固とした几帳面さがあった。彼が2階にいる間に、彼女は口紅をつけ、髪をとかしたこともわかった。「気分を変えて、ダイニングルームで食べるのはどう?」とキャシーが言った。「グレイシーがテーブルの準備を手伝ってくれるわ。そうよね、グレイシー」そう言って、娘を抱いてスツールからおろし、手をつないで連れ出した。
 彼一人が台所に残り、オムレツから目をそらさず、何度もフライパンをゆすって焦げつかないようにした。窓の外には、凍てつく寒気が西の山の方へ退いて、その名残りが納屋の外に停まっているキャシーの車のボンネットに奇妙なパッチワークを作っているのが見えた。少し経ってから彼はフライパンを火から下ろし、玄関の反対側にある、滅多に使わないダイニングルームの入り口へと向かった。
 キャシーはテーブルの端にいて、大きなシルバーのお盆の上にかがみこんでいた。それは結婚前にダブリンのマーケットで二人で見つけたもので、結婚祝いにもらったクリスタル製品がいくつか載っていた。キャシーはグラスを一つ取り上げ、光にかざし、ひびが入っていないか縁に指をすべらせた。ティータオルで磨いてからテーブルの上に置き、もう一つを手に取った。グレイシーは赤いナプキンをテーブルに並べていて、一度折って、また折ってから押しつけて、手を離すと開いてしまうことに文句を言っている。キャシーは顔を上げて、微笑んだ。「ワインのボトルを開けようと思ったの」と彼女は言った。「お昼に一杯なら飲めるでしょ。一杯なら、どうってことないわよね」
 「そうだね」と彼は答えた。ダイニングルームの窓の外に、マーサのシルバーのボルボが私道に入ってくるのが見えた。滅茶苦茶になった池のそばに一時停車し、彼が見守る中、マーサは運転席のウィンドウを下げ、しばらくじっと見ていたが、車を発進させて家に近づいた。「なんて素敵なサプライズ」とキャシーが言った。「しかもちょうどランチの時間に」キャシーはクリスタルを置いて彼の横を通り過ぎ、玄関に出て姉を迎えた。
 グレイシーはナプキンを並べ終えて、椅子からすべりおりた。彼女が見ているのは父親ではなく、この部屋の中だった。次にどんな状況が訪れようとも、彼女はそれを迎え入れる態勢が整っている。突き出たあごは彼の家系には見られない意志の強さを思わせ、彼から見ていつもキャシーよりマーサを髣髴とさせた。グレイシーは目的をもってクリスタルが載ったお盆に向かっている。一瞬のうちに小さな手を伸ばし、青いカットガラスの背の高いデカンタの下に敷いてある麻のナプキンの隅をつかんだ。グレイシーがナプキンをぐいと引っぱると、デカンタは傾き、倒れかかった。「グレイシー!」彼の後ろでマーサが叫ぶ声がした。だが彼はちゃんと見守っていた。いつも通り見守っていて、その場にいた。デカンタが落ちる寸前に、彼はちゃんと受け止めたのだった。