ドリス・デリエ
アメリカで舞台芸術を学んだ後、ミュンヘンのテレビ映画大学で学び、1997年より同大学教授。デリエにとって映画と執筆は密接な関係にあり、1970年代から現在に至るまで50本以上のドキュメンタリー映画や長編映画を監督し、30本以上の小説を執筆している。文学と映画の両分野でドイツ内外の賞を多数受賞。主な関心テーマはジェンダーと文化交流で、特に日本と仏教に関心がある。
本書は、自分自身について書いてみることの誘いである。文章を書く時、人は常に自分について書いている。そのように自分について書くことは、時には素晴らしかったり、痛みを伴うものであったり、ナルシスティックであったり、癒すものであったり、壮大であったり、開放的であったり、深く悲しいものであったり、高揚させるものであったり、気分を滅入らせるものであったり、退屈であったり、生き返らせるようなものであったりと刻々と変化していく。書くことで、私は自らの人生に繋ぎとめられ、生きながらえることができるのである。日々その繰り返しだ。私は書くことによって、生きているというこの信じがたい機会をはっきりと感じて、祝福するのだ。私は、この人生に意味を見出すために書くのだ。たとえ最終的には、そんなものなどないのであるとしても。
私たちは皆、物語の語り手なのだ。ひょっとすると、物語ることを通して私たちは人間になるのかもしれない。ひょっとすると我々は、実は猫やヒトコブラクダが比類なき物語の語り手であることを知らないだけなのかもしれないのだが。私たちは語りやめることなど出来ないのだ。終わることのない内的なモノローグの中で、私たちは自分について物語る。そのうちのいくつかは真実で、いくつかはほんの少しだけ真実を含んでいて、それ以外は全くデタラメだ。私たちはみな虚構なのだが、そんなことを私たちは信じようとはしない。なぜなら私たちは、あたかも連載小説に登場するかのように、その虚構の真っただ中に身を置いているのだから。
書くことで、私は世界を探求している。私の世界を。どのような出来事が私を感動させたのか。どのようなことが心に残ったのか。どのようなことに衝撃を受けたのか。どのようなことが私の心を朗らかにしたのか。どのようなことが私を感激させたのか。どのような出来事が私の記憶に留まっているのか。
売るための文章を書くためにはどうしたらいいのか、私には到底想像がつかない。そんな目的のためには、例えば、『素晴らしい小説を書くには』だとか、『良い脚本の書き方』とか『熱狂させるシリーズものの書き方』だとかいった題名の本がすでにあるわけだ。私が唯一知っていることは、人が一言一言、一文一文、自分の身の回りの世界について書き記していけば、自分自身がどんなものなのかっていうことが何となく見えてくるようになるっていうこと。一歩一歩前に向かって歩いて行くときに大切なことは、身の回りの事に注意を払うこと。例えば足の真下にある地面や、我々の頭上に広がる空、そして自分たちと時を同じくして、片方の足をもう一方の足の前へと踏み出している他人に注意を払うことが重要なのだ。いずれまた、すべてのものに別れを告げなければならなくなるとしても。
書きながら、私は自分自身のことを思い出している。私の頭の中にはどんな映像と音声が、一体どのような人々、場所、動物たち、様々な感情が記憶されているのだろうか。我々のうちの誰もが唯一無二の存在である。同じ出来事に対して、誰も全く同じ記憶を持つことはない。それってあり得ないじゃない。信じられないことだわ!私はそんな唯一の出来事を書き記したい。それらが再び消し去られる前に。全ての詳細にわたって。私が見た、耳にした、味わった、触ってみた、匂いを嗅いだ、感じたもの全てを。私の中にあるこの世界は、共鳴でありインスピレーションだ。Spirare - すなわち呼吸することなのだ。書くということは、すなわちこの世界を胸に吸い込むことなのだ。それは山の早朝の冷たい空気だけでなく、霧、煙、排気ガスを吸い込むことなのだ。美しいものも醜いものも同等に。
20年以上前から、私は「クリエイティブ・ライティング」の授業を教えている。でも私はこの名前には納得していない。だって書くという行為はどんなものであれ、ある種の創造性を必要とするものであると思うし、それは買い物リストを書くことですらそうなのだ。ショッピングカートの中に入っているのを見つけて集めた、次のようなリストのように。
もうほとんど、詩ではないか。これらの単語を通して映像が浮かび上がってくる。その赤いチューリップはかなり花開いていて、プリルのボトルは深い緑色。そしてパック詰めにされた冷凍のエンドウ豆に、チューリップは微かな涼しさに強く惹き付けられて寄り添っている。そして雪のように白い綿棒。
全てはインスピレーションであり、全ては記憶されたものである -
赤い花について - 私は6歳か7歳で、チューリップの絵を描く。燃えるような真っ赤な花びらと、黄色い雄蕊に、黒い花糸。私はそのチューリップを見てほれぼれとする。このチューリップより美しいものなんて存在しない。あれから50年以上が過ぎても、私は今でもまだチューリップを描いている。チューリップを買ってくる。チューリップの美しさに心酔する。そこの一輪のチューリップは、私の家の小さな庭で毎年育ち、花を咲かせ、私をうっとりとさせる。来る年も来る年も、私はこの花が咲くのを心待ちにしている。
プリル(大)について - 新しいボトルを買うたびに、プリルの花を目にする。フラワーパワーの花 2 。ツィッギーのような外見に憧れて、ショートヘアーにしている、まだ子供ぐらいの私は、のどから手が出るほどパールピンクの口紅が欲しくてたまらない。それはウールワース 3 にあるMARY QUANTに売っていて、その口紅にも花のイラストがあしらわれている。全ては花でいっぱいの時代だった。MARY QUANTは、そうだとも、ミニスカートを履いている。私は白いニット素材の、ミニワンピースを着ているし、気がつくとピンク色の口紅を買えるくらいのお小遣いが手元にあって、その口紅をつけると、もう何も食べてはいけなくて、私が喋る一言一言が価値あるものに思われた。だってそれはピンクパールに彩られた唇が発する言葉なんだから。私はプリルのボトルと戯れて、ごくごく小さなシャボン玉を自分の周りにふわふわと浮かばせる。
冷凍のエンドウ豆について - 冷たいエンドウ豆を、青あざだったり、打撲傷、捻挫したくるぶしだったりに当てる。私はよく足を挫く。私のくるぶしはほっそりし過ぎて、ひ弱だから。靭帯断裂の目にも何度もあい、そうなると地面にしっかりと立っていられない。中国人の鍼師が私にこう言う。「きみの頭の中は平穏じゃないようだね。」
綿棒について - 私が子供の時に教わったのは、耳の中をほじくり返すのは良くないということ。危ないんだそう。鼓膜を突き破ってしまったお話の数々。知り合いのひとりは、綿棒でコンロを掃除している。それはちょっと考えものだと思う。行き過ぎた綺麗好きはいかがなものかと思われる。
大体どんな感じか分かった?全てのものは書くことへのインスピレーションとなる。全てのものは自分の人生を思い起こさせるわ。あなたは敬称がいい?それとも親称で話しかけて欲しいかしら?私自身、自分がどうやって話しかけて欲しいか分からないわ。そして私に出来るアドバイスは特になくて、ただ毎日書いてみて、自由奔放な連想をしてみるだけ。自分の記憶の中の枝分かれした坑道を掘り進めて、引っ掻いて、掻き出す。時折、そこで金塊 (Goldnugget) を見つけることがあるわ。時にはただの古くなって、干からびたチキンナゲット (Chicken-Nugget) の事もあるけれど。私はかつて、ファストフード店で働いていたことがあったものだから・・・。
翻訳: 中ノ目亜子
Ako Nakanome (Japanese translation) from: Doris Dörrie: Leben, schreiben, atmen: Eine Einladung zum Schreiben. Copyright © 2019 Diogenes Verlag AG Zurich, Switzerland. All rights reserved