1984年、チェコのポリチカに生まれたマレク・シンデルカは、詩人、作家、脚本家として活躍している。2006年に詩集でイジー・オルテン賞を受賞したのち、初めての小説『過ち』を2008年に発表。絶滅に瀕した植物の密輸を題材にした本作はスリリングな展開と卓越した表現力で多くの読者を魅了した(2018年には大幅に加筆された版が刊行された)。チェコの文学賞マグネジア・リテラ賞(散文部門)を二度受賞(2012、2017年)するなど、今日注目されるチェコ作家の一人である。
マレク・シンデルカ
阿部賢一訳
車にたどり着いた。二百メートル歩いているうちに、クリシュトフのシャツは汗まみれになった。午前八時半、気温は三二℃、都市には人がいなかった。洪水は収まり、被害が甚大だった場所でも撤去作業が始まり、耐えがたい猛暑が訪れていた。
浸水した街路からは腐敗と乾いた堆積物で悪臭が漂っていた。街中に臭気が充満していた。切断されて絶え絶えになっている支流の悪臭が風に乗って運ばれてきた。
ここ数年、洪水は規則的に起きていた。沿岸部はほぼ居住不可能だったが、都市部は早くも自身のホワイトノイズを振動周波数に合わせていた。数軒の家屋が撤去され、交通網も修繕され、対物保険の支払いも行われていた。経済活動と生活は続いていた。
だが今回の洪水は特別だった。ダムが決壊して、流れ込んだ水は地下鉄を破壊し、歴史ある中心部の大半を壊滅させ、都市は死に見舞われた。心臓の壊死。連帯を示す外国からの支援の波のあとには、洪水のような観光客の波が訪れ、最後にやってきたのは完全な無関心の波だった。
軍は、機能していない街区の奥への泥土の撤去作業だけではなく、荒廃した動物園の片隅で怪我をし、なすすべなく怯えている動物たちを手当たり次第に射殺していた。二年前、洪水で溺れた象の子供の話は、皆、感動しながら見守っていたが、時間の経過とともに、人々は鈍感になっていた。暑さは耐えがたいものだった。誰もがバイオリズムがおかしくなっていた。とはいえ、生活はゆっくりと、着実に夜へ向かいつつあった。
クリシュトフはエアコンの効いた車の座席に坐り、熱気を帯びた毛根にひんやりとする風があたり、ありがたく思った。窓ガラスの向こう側では、白い街路の風景が次から次へと過ぎ去っていた。目を覚ますと、醜悪なガラス繊維補強セメントの建物の前でかれらは立っていた。急拵えの警察署だった。玄関前には二台のトラックが止まっていて、何人かの男が頭からつま先まで汗をかきながら事務用品を搬送していた。
少しして、一階の簡素な部屋に坐った。エアコンは動いておらず、テーブルには二台の扇風機がレーダーのように左右に首を振っていたが、安らぎはまったくもたらされず、ただ温かい空気を左右に移動させているだけだった。クリシュトフからは滴がしたたっていた。IDにロサと書いてある男も汗をかいていた。短髪の背の高い男はジャケットを着て、シャツのボタンは上までしめ、首元のネクタイもしめていたにもかかわらず、額には一滴の汗もなかった。蒼白だったので、現実離れしたあの状況でなければ、寒がっているようにも見えただろう。
誰も言葉を発しなかった。クリシュトフはサングラスを鼻の上でずらし、天井の眩しい蛍光灯から視線を逸らした。
「ひょっとして、あなたはユダヤ人?」何かを始動させるように、ついに口を開いた。男たちは黙ってお互いを見つめた。
「ヨゼフ・カバラっていう名前は――」
「質問をするのは私たちの方だ」ロサという名前の、手にタコができている男が節操もなく言葉を遮った。左手の薬指に長年つけていた婚約指輪の跡が残っている――だが指輪はない。もう一人の短髪の男は窓側に立ち、汗を流している連中をガラス越しに見ていた。無意識にポケットを触り、ニコチンパッドをまた上唇の下に入れた。
「カレル・ロサ……」クリシュトフは何かを聞き逃したかのように言葉を続け、苛立ちを打ち消そうと話し、ますますその男が疎ましく思った。「いい名前だ、よくわからないが、でも、あなたには似合っていない……それとも、自分ではそう思うかい」
テーブル下で足は震えていた。屈辱的な神経の震えをぎゅっと力を入れて止めたが、集中力が途切れると、足はまたピクピクと動いた。
「繰り返しになるが」ロサはため息をつき、クリシュトフの名前が書かれたファイルをテーブルの上に放ると、向かい側の席に腰かけ、手の甲で上唇の汗を拭いた。「質問をするのは私たちの方だ」
「じゃあ、どうぞ、質問を」クリシュトフはしびれを切らして手を振った。骨の髄までその男を忌み嫌っていた。話し方も、皮膚が硬くなった手も、下手に伸びた鼻も忌み嫌っていた。鼻を見て、最近亡くなった俳優を思い出した。ジェラール・ドパルデューだろうか、クリシュトフは苛立ちを覚えながら首筋を拭くと、一滴の汗がたらりと流れた。
ロサはファイルを開き、テーブルに肘をつくと、相手の顔を眺めた。クリシュトフは不安を抑えきれずに視線を落とした。黒いガラス越しに見られているのはわかっていた。すぐにテーブル下の足を意識した。だが足と目を同時に制御するのはできない話だった。
「日本からは何を運ぶつもりで? ワルヤクさん」クリシュトフの喉がきゅっと締め付けられた。言葉は発さなかった。
「ハルキンはウィーンで何を待っていた? 雇い主は誰?」
クリシュトフは唇をかむ。鎖骨のくぼみに汗が流れた。
「雇い主は誰かって、訊いている」ロサは威嚇してテーブル上で体を前のめりにした。
「無職ですよ、調べてください」クリシュトフは顔をしかめた。「ここでタバコ吸っていいですか?」
タバコを取り出し、火をつけたものの、指はひどく震えていた。苛立ちをおぼえたが、抑えられなかった。
「だめだ」その震えを楽しむかのように、ロサはすこし間を置いて答えた。飲みかけのコーヒーカップをクリシュトフの前に動かすと、クリシュトフは気乗りしなかったがタバコを浸した。サングラスをずらして、腕組みをする。自信に溢れたポーズだったが、じっさいは震えている両手が見えないようにするための安全策だった。
「では……」ロサはファイルをめくる。「クリシュトフ・ワルヤク、二十六歳、無職、生物学専攻中退、二万五千の家賃のアパート、だがそこに滞在するのはごくまれ、毎月の売り上げは十五万ほど」――ロサは意味ありげに見まわした――「多くは海外で、過去二年間で、タイに一回、マレーシアに一回、ボリビアに二回、ペルーに一回、ブラジルには三回、ヴェネズエラに一回、最後は日本。この旅行の目的は?」
「観光」クリシュトフは少し間を置いてから答えると、肩をすくめた。
「航空券を手配したのは誰?」
クリシュトフはふっとため息をついてから脇を見た。窓際の短髪の男はまったく別のことを考えているようだった。立ったまま、小さなノートに何か書き留めていた。上唇の下のニコチンパッドをさりげなく噛んでいる。
「悪あがきはやめよう、ワルヤクさん」ロサはファイルをパンと閉じて、前に差し出した。「あなたに関して必要な物は揃っているんだ」
扇風機は疲労など知らず、何かを歌っているかのように左右に首を振っていた。ロサはしばらく黙ったまま、テーブル上の三つのコップにできた波紋を見ていた。クリシュトフが貧乏ゆすりをやめると、波紋は消えた。
「今更、忠告する必要はないと思うが」まるでその時を待っていたかのように、ロサは続けた。「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約は近年厳格になっている」。テーブルの上のファイルをパンと手で叩いた。「これだけで、十年は間違いない。そのうえ、罰金や入国禁止――」
「何のことだ?」クリシュトフはもう我慢ならなかった。サングラスのレンズの下では目の隅が汗でひりひりしていた。
二人の男は互いに顔を見合わせた。カバラは窓からテーブルに移動し、クリシュトフの向かい側に坐った。こいつ、全然汗かいていない、クリシュトフは一瞥し、そればかりか、椅子に腰かけ、ネクタイを直すと、冷たい空気が吹いたように感じた。
「あなたの直近の仕事だが」そっけなく言葉を発すると、その一文を発しながら舌の下でパッドをさりげなく動かしていた。
「マリアーン・ロトコとは、どういう仕事をしていた?」ロサは肘をつき、身を乗り出した。
「さっきも言ったが、そんな奴は知らない」クリシュトフは顎の皮をつまんで放した。何百もの事柄が頭に浮かんだが、その一つたりとも外には出せなかったし、一つも出さなかった。
ロサは携帯を手にし、スクロールして画面をタップすると、クリシュトフの前に差し出した。
「クリシュトフ・ワルヤクとは、どういう仕事をしていた?」録音されたカバラの声が聞こえた。
「おれたちは、まず第一に……誰にも危害を加えるつもりはなかった」スピーカのマリアーンは言葉に詰まった。
クリシュトフは頭を下げ、歯をかみしめ、すべてを理解した。
「アドレナリンだと思って、飲んだんだ、そうしただけ、おれたちは――」
「もう十分だ、ロトコ」カバラが遮った。「あなたも、私も、あれが無邪気な冒険ではないのはわかっている。ワルヤク氏との仕事で、危機に瀕した、だがとても高価な植物を何度も越境して販売してきた。あなたのことは、もう何年も監視している」
「わかった」マリアーンは怒りをあらわにした。というのも、それぐらいしかできなかったからだ。相手が望む場所に追い込まれていた。「でも、需要があるのはおれたちのせいじゃない! 絶滅に直面している品種ほど値が高騰するのは知っているだろ? 自然の生息場所を破壊しなければ、大半の花は価値もなくなる。エコシステムが破綻する責任はおれたちにはない。なあ――」
「くだらんことをほざくな」ロサが言葉を遮った。
「あなたは十分に関係者だ、その証拠にいっしょに仕事しているだろ。エコシステムも、生息場所も、そんなもの、どうだっていい。ウィーンには遺体がある。ハルキンって、何者だ?」
「どうして、おれが知ってるんだ?」マリアーンが言葉に詰まった。
ロサ――「ワルヤクが予定された東京発の便に乗らなかったのは、なぜだ?」
マリアーン――「知らない」 カバラ――「今、どこにいる?」
ロサ――「何を運ぶ予定だった?」
マリアーン――「知らないったら、知らない! クリシュトフに訊けば、いいだろ! あれは奴の案件だ……おれは関係ない」
カバラ――「ロトカさん、私たちに協力してくれるなら、私たちもあなたに協力することができる」
ロサ――「証人を保護するプログラムがある、必要であれば監視をつけることも……」
カバラ――「だが、あなたが関係ないと主張を続けるなら、自分自身でかたをつけないといけなくなる……」
マリアーン――「初めから、やるべきじゃないって思ってたんだ!」間。
マリアーン――「おれは、クリシュトフに言った! ぜったいうまく行きやしないって……」
カバラ――「結構、初めから振り返ろう……」
「これは三日前……」ロサは録音を止めた。
クリシュトフは鼻を鳴らし、肩をすくめた。だが顔面蒼白だった。
「残念だが」カバラはそう言うと、テーブルから立ち上がり、また窓の方に向かった。ポケットをまさぐり、舌のしたにまたニコチンを入れた。
「奴がお前の知り合いなのはわかっている」カバラは言葉を続け、また何か書き留めていた。クリシュトフは不安そうにロサを見て、また窓の方を向いた。
「な……なんのことだ?」
ロサはファイルを開き、クリシュトフの前に警察資料の写真を置いた。一枚目の写真をちらりと見てたじろぐ。目の前が真っ暗になり、すこしよろめいた。
「まさか……」そう言うのが精いっぱいだった。まるで今その部屋に入ってきたかのように、困惑して周囲を見回した。胃が気持ち悪くなった。カバラは振り返り、背中でガラスにもたれ、何か考えながら舌の下でニコチンを動かしていた。落ち着いて何か言葉を発し、言葉の振動はクリシュトフの全身を伝わったものの、その意味は理解できなかった。頭の中で唸っているだけ。
ようやく意識が戻ると、苦痛に悩む人間をロサが満足げに見ているのに気がついた。他人の苦痛を目にするのが趣味だったようだ。クリシュトフは血の気が引いた。やるせない怒りが沸きあがり、腕に血が流れ、拳が握りしめられるのを感じた。そればかりか、ロサはその様子を嬉々として見ていた。
「どうも」クリシュトフは力を振り絞って落ち着いて言葉を発し、ロサの眼を直視した。「話は以上ですか? そろそろ、おいとまします――」
「ワルヤクさん」ロサは厳しい口調で言葉を発した。「もう一度、初めからだ。これからは、私が質問するまで、あなたは何もしゃべってはいけない、いいか?」クリシュトフの体の前まで身を乗り出した。「おい、このクソ、これがお前のヤマなんだろ? お前が奴らを巻き込んだ。それがしまいには、これだ……」ロサが写真のファイルを突き出すと、何枚かクリシュトフの膝の上に落ち、他の何枚かは床に落ちた――マリアーンの蒼白した顔、彼の眼。クリシュトフは全身が身震いしているのを感じた。カバラは無関係だといわんばかりに窓の方を向いた。クリシュトフは無意識にロサの手、薬指、消えた指輪の消せない跡を見た。「私は関係ない」。起き上がって、ロサに近寄り、顎をしゃくって彼の手を示した。「あんたの奥さんに逃げられたんだろ?」
ロサの体はびくりと硬直したので、命中したのだろう。そのあと一瞬、笑顔が浮かんだがすぐに何かに引っ張られたように苦虫を噛み潰したような顔になった。頭を抱えたかと思うと、それは一瞬だった。――クリシュトフは、針を刺されたのか、左脇に電流が走ったように思えた。焦点があってわかったのは、すさまじい力でロサにテーブルをぶつけられ、その角が腹部に当たり、腰がくだけたのだ。体が前屈みになるやいなや、ストレートパンチを頬に喰らい、そのあとテーブルにぶつかると、鼻から飛んだサングラスは虫のように潰された。
立ち上がって身体を真っ直ぐにしようとしたが、あまりの痛さに声を漏らし、カップや書類が散乱している床に倒れ込んだ。どこかに肘がぶつかったみたいが、なんだかわからなかった。具合が悪いのはわかっていたものの事態は理解できず、床に倒れて、勝手に床に貼りついている両足を眺めた。シャツをめくろうとしたが、手が震え、ズボンの後ろからシャツの先を取り出せなかった。溺れてしまい、酸素が漏れている氷の亀裂を水中から探しているかのように、なすすべもなく、ただ困惑してシャツを引っ張っていた。
「どうした?」ロサは身を乗り出した。
シャツと無意味な葛藤をしているあいだに、クリシュトフの胸ポケットから折り畳まれた一枚の紙がさっと落ちた。《ニーナ、仕事が入った。これが最後だ……》字面は目に入ったものの、床にこぼれた水で文字は滲み、今にも消えそうだった。
「ワルヤクさん」もう一人の手が彼の身体を揺さぶった。最後に目にしたのは、ジャケットの袖がめくられ、肌に刻まれた、尾びれ、クジラの一部、カバラのタトゥーだった。
Marek Šindelka „Chyba" Praha: Odeon, 2019. Druhé, revidované vydání.