マリアンネ・バックレン
中村 冬美 訳
『ダイヤモンド通り』
ある小説より抜粋
ダイヤモンド通り、それはどこから始まるのだろう? フェズ〔モロッコの都市〕、あるいはもっと昔、南キブ〔コンゴ民主共和国(DRC)東部の州〕で過ごしたジャン-バティストの幼少期だろうか? 今日(こんにち)でも私は彼が迷宮のようなメディナ〔フェズの旧市街〕の、閉められた扉の前に立ち、待っているような気がする。彼がずっとそこに立っているような。そして私の方はヘルシンキのカフェや東京の銀座にあるティファニーの前で彼を待っている…。メディナの扉がやっと開かれると、古いインスタグラム写真にあったような、きらめく光が解き放たれて周りを取り囲み、私たちは目がくらんでしまう。
1.ゼルダの子守唄
午後遅く、私たちは谷間の端にある山を散歩していた。ラップランドの荒野が熱気でよどんでいる。目に見えない鳥が私たちの後をついてきているようだ-それともドローンだろうか…。石ころだらけの山道で、暑さのせいで気分が悪くなり、足元がふらつく。短い上り坂で、軽い足取りのステラが消えていくのが目に入る。ステラが背負っている釣り竿のせいで、ふとゼルダの伝説を思い出す。ヘルシンキで70年以上も前に、私がエンマのニンテンドー64コンソールで遊んでいたゲーム。
ステラは弓を背負って、時のオカリナを探すリンク〔ゼルダの伝説の主人公〕のよう。疲れも知らずに私の前を走っていく。古いブラウン管テレビのモニターで、リンクが走っていたのと同じように。ステラは洞窟へ向かってハイラル王国の草原を走り、コキリの森へ向かい、ゴロンシティに入るとオカリナでゼルダの子守唄を吹く。
待って、ステラ!
いつ私はこんなに年をとったのだろう。本当に83歳を迎えたのだろうか? 石をまたぐと腰に痛みが走る。ラッカ〔フィンランド内のラップランドにある地域〕では、見渡す限り、石だらけの地面が続く。どうして体力が持たないのだろう、どうしてこんなにゆっくりとしか、歩けないのだろう…。この道を何度となく歩いたのに。最初は母やお祖父さんのハンスと一緒に。その後は、幼かった頃のステラと一緒に。
ジャン-バティストが、北極圏北部の短い夏を経験したことはなかった。けれども私はスギやユーカリの木が立ち並ぶ、鉱山まで続く細い道を覚えている。少年や若い男たちが荒涼とした黄褐色の斜面に立ち、シャベルやツルハシで採掘をしていた。若い女だった私は、遠く離れた赤道に近い地域、鬱蒼とした熱帯雨林のある河川流域について何を知っていたのだろう? 鉱物や反政府組織について…。
ぽっかりと口を空けた鉱坑は、考古学的な発掘現場のようにも見えた。生贄の子どもや宝石、果物やオイルやワインを要求する残酷な神、おそらくは太陽神のために建てられた神殿の廃墟のように。フィンランド人の宝石商カレヴィはひげ面のアメリカ人とともに鉱坑の縁に立って、パンか何かのように大きな土の塊をせわしなく割っていた。彼らは何を探していたのだろう。新しいアフリカの星、青いハート・オブ・エタニティ〔世界中で最も貴重な10個のダイヤモンドのひとつとして数えられている、希少な宝石〕だろうか?
山の向こうにはヘリコプターが一台浮いている。砂金採りを乗せるか、観光客を登山道へ運んでいるのだ。メーコ谷〔ラップランドの地名〕の崖の上では、醜いガラスイグルーが輝いている。
私はヨハン叔父さんの古い水筒から、水を一口飲んだ。ステラはお祖父さんのコンパスで方角を確認している。100年近く前のものだ。私たちは、ジャン-バティストの物は何も持っていなかっただろうか。いや、ステラが生まれた時に彼からもらった、ダイヤモンドの指輪がある。ラウンドカットの小さなダイヤモンドで、カラー、クラリティ、カット、カラットといった4Cからいえば、グレードは低いに違いない。
この指輪がジャン-バティストの母親の物だったと分かったのは、何年も後だった。ステラはプリンセスカットの高価な指輪を、肌身離さずはめている。キンバリープロセス証明書が添付された婚約指輪で、私がヤンネから東京でもらったものだ…。魚をさばく時や、窓拭きをする時でさえ、ステラがこの指輪を外すことはない。
ダイヤモンドの知恵? 私がこの石から何を学んだというの? 誰かがVajrayana〔密教〕を説いていたけれど、誰だったかは覚えていない。この教えはダイヤモンドのように硬くて鋭い…。じゅん子だっただろうか。緑色の川のほとりで?
私たちの前で、窪地に建つロッジが、曲がったヨーロッパシラカバの向こうで湖が青く輝くのをちらちらと眺めている。赤いサカイツツジ〔Rhododendron lapponicum〕の花が、絨毯のようにツンドラを越えてシベリア、日本、そしてアラスカへまで広がっている…私は背丈の低い岩を、登る代わりに迂回した。とはいえまだハウスダンスを踊ることはできる。簡単なバウンスなら、それほど筋力はいらない。
誰かが星影のステラを歌っていたけど、あれは誰だった? 私が覚えているのは、人生の断片や小さな切れ端だけ。世界的ニュースや新しい世界の序列など、ほとんどはよく分からない。遮断された電気回路の入っているマイクロチップが、手の皮膚の下でムズムズしている。全てが破壊されてしまった今では、もう取り出してしまえばいいのだけれど。インターネットもアンドロイドも、AIもアルゴリズムも自動操縦装置も、何もかもだ…。チャットボットもゲノム編集も暗号通貨も…。それとも私の頭の中でのみ、破壊されただけなのかも?
なんて気が楽なのかしら。母は亡くなる直前にささやいていた。もうオンラインにつながっていなくていいなんて、なんて気が楽なのかしら…。
私たちは湖のほとりの貸ロッジで夜を過ごす。マットレスが汚れている。ハエがブンブンと音を立て、背中に十字模様のある赤い甲虫が壁の木材にもぐりこんで行ったり来たりしている。私は浜辺の石に座り、じゅん子のくれた擦り切れた扇子であおきながら、ステラがキッチンテントで起こした調理用の火から漂う、快い匂いを感じている。
昼間が過ぎ夕方が近づいてきたが、7月の第2週目なので昼夜を問わず日が出ている。私は真剣に耳をそばだてる。ジャン-バティストと共にフェズでやっていたように。私たちは一番近いミナレット〔イスラム教寺院の光塔〕からイスラム教の礼拝への呼び掛け、アザーンが聞こえてくるのを待っていた。祈りへ参加しましょう、救いに預かりましょう…。それともあれはじゅん子が唱えていた日蓮宗の祈り、勤行の時間だったのだろうか?
浜辺の小道にいる 背の高いステラの姿が目に入る。ジャン-バティストと同じような逞しい身体つきをしている。彼女は丈夫で健康的だ-けれども私が思っているほどには強くはないのかもしれない。悲しみに暮れる時は、どうやって癒やすのだろう? 私とあの子はある意味、健全とは言えない形で互いに依存しあっている。
明るい夏の夕方、私は薪小屋の後ろで座っている。ほんのひととき、一人になりたい。聞き耳を立て、待っている。私はヤンネを待っている。いつだって彼を待っていて、ある日トルコ色のメディナの扉が開かれる…。
ママ、どうしてそこに座っているの? 蚊に吸いつくされちゃう前に、ロッジに入って。
湖のほとりで過ごす最後の夜、食事が終わろうとしていた。私たちはロッジの外でお茶を飲んでいた。太陽が山の向こうに沈む瞬間、空がばら色に染まる。山の向こうから小さく雷の音が響いてくる。それとも鉱山の発破の音だろうか? 東の空が暗くなり、荒野に静寂が舞い降りる。茂みでさえずる鳥の声だけが響く。目には見えない鳥。ゼルダの子守唄を歌っているのだろうか。
なだらかな山の稜線に5~6人位の人影が見えたのは、ロッジに入ろうとしていた時だった。ステラはお祖父さんの双眼鏡を取り出すと、私に手渡す。3人の男性と2人の女性だ。遠くからでも、女たちのサリーがきらめくのが見える。赤いスカートを身につけた少女も目に入った。彼らは誰だろう。ルッレ山沿いにある難民用施設を後にしたベンガル人? それとも北極海のそばの鉱山からやってきた請負労働者? 森で野いちごやきのこを採るために、南へと向かっているのだろうか?
人々は常に移動している。故郷を引き上げ、避難し、安全の地を求める。祖母のカーリンは冬の戦争と名付けられた戦争の終わり頃、1940年にヴィボリィから避難をした時のことを話してくれた。ジャン-バティストの家族はどこから避難したのだろう。彼の家族はどこから来たの?
ステラ、彼らはこっちへ向かっているのかしらね? 私たちが見えたかしら。
うん。そうだと思う…。
物腰の丁寧な若い男性がやってきて挨拶をする。彼は流暢な英語を話した。他の人々は積んである薪のそばで静かに待っている。
こんばんは、お邪魔してすみません。私たちは長い間歩いてきて、子どもが疲れてしまいまして。お腹が空いているのですが、食べ物を少しいただけませんか。少しのパンか何か?
ステラが冷たくよそよそしい態度で迎える。私はといえば、同情心をできるだけ隠そうとしていた。ステラが夕食の残りの白米を彼らに出した。明らかに少なすぎる。トナカイの干し肉、何本かのにんじん、私たちが明日の朝ごはんにしようと思っていたりんご2個。今の世界状況では、食べ物は貴重品だ。一口分の食べ物が金のように尊く、穀物の一粒が祝福だ。
これが私たちの持っている全てなんです。お泊めすることはできないんですよ。
男たちも女たちも瞳を落としてうなずく。
分かっています。
子どもが前髪越しに私たちを見ている。蚊に刺されて、あちらこち腕が赤くなっていた。おもちゃか、清潔なセーターか何かを彼女にあげられたらと思った。ジャン-バティストが昔のYotube映像を私に見せてくれたのを思い出す。キンドゥ〔コンゴ共和国〕のキャンプから姿を消した難民のビデオだ。豪雨の中で少年が振り向き、絶望すると同時に訴えかけるような瞳でカメラを見つめていた。あの少年がヤンネであってもおかしくはなかったと気づいたのは、そのずっと後だった。
外国人たちはむさぼるように食べ、ありがたそうにはしていたがお礼は言わなかった。ステラが冷たく言った:
もしソーマソロムポロの村に向かうなら、登山道に沿って、自由に泊まれる山小屋がありますから。
ええ、知っています。ナマステ。
私は4時に目が覚めた。ロッジの中が驚くほどひんやりしている。北極海から寒冷前線が、すごい速さで向かってきている。ステラがぱっちりと目を覚まし、頭を持ち上げた
どこへ行くの、ママ?
トイレに行くだけよ。
薄い霧が湖の上を漂い、太陽はもう、山の東向こうで輝いている。辺りは静まり返って風もなく、空気は冷たく、少々ぞっとするような雰囲気だった。私は待っている。彼がいつかやってくると、知っている…。
この季節には薄すぎる灰緑色の夏服を着て、誰かが湖のほとりに立っている。お祖父さんのハンスだ。双眼鏡を持ち上げて何かを指差し、手を振って何か叫んでいる。
母は祖父の前に行くと、できるだけきっぱりとした声で言う。
お父さん、中に入ってください。こんな戸外に立っていたらだめですよ。寒いでしょう。
ステラが戸口に立っているのが見えた。眠そうで不安気で、ちょっと怒った顔で:
ママ、中に入って。寝ないと明日持たないわよ。
ロッジを後にする時、冷たい霧雨が振っていた。石は滑りやすく、ほとんど凍っているようだった。でも私は十分に休息が取れていて、息も上がらずに歩くことができそうだった。61歳のステラは、一息つくために立ち止まる。あまり寝られなかったようだが、私のせいだ…。
ちょうどバスに乗り込もうとした時、寒冷前線が忍び寄ってきた。辺りの風景が一瞬で凍りつく。ヨーロッパシラカバが氷の彫刻に変身し、厳しい寒さの中で小川から蒸気が立ち上る。それとも全部私の想像だろうか? 私は凍えながら、ステラが小さい頃に大好きだったディズニーアニメの、アナと雪の女王を思い浮かべる。
バスが小さな村の中で停まり、あの小さな一行が目に止まった。少女が父親におんぶされていて、父親が一足踏み出すごとに彼女の足が前後に揺れる。バスがゆっくりと彼らのそばを通り過ぎる時、窓越しに少女と目があったような気がした。絶望すると同時に訴えかけるような瞳だった。
2.午後5時
10歳か11歳の頃、母とフランスへ旅行に行ったのを覚えている。2000年代の初めの頃で、まだスマートホンもwifiも普及する前だった。私は自分のmp3プレイヤーでスパイス・ガールズを聴いていて、プラスチック製のニンジャ・タートルズのドナテロで遊んでいた。
パリから電車とバスを乗り継ぎ、小さな村へと向かった。昔話に出てきそうな灰色の村で、夢の中のように浮世ばなれしていた。年老いた今なお、川が静かに流れる音や、城の廃墟で鳩がクークー鳴いていた声が耳に残っている。Viva forever…〔スパイス・ガールズのセカンドアルバムに収録されている曲〕。私はソファに寝ていた。母の新しい友人の彫刻家が、ガラクタで作ったオブジェを移動させる、ドスンという音が上の階から聞こえてきた。ブリキの羽根を平和の天使につけるのは、手こずったという…。
夕方、母と彫刻家は芸術家たちの住宅のテラスに座り、他の客たちとワインを飲んでいた。ツバメが宙を滑るように飛び、急降下して互いに追い払い合う。母が、乾燥した黄色っぽい芝生の上でストリートダンスをやってみせてと言ったが、私は断った。
イェシカの父親はどこの人なの? 誰かが聞いた。
カリビアンよ、と母が答える。
彼女の見かけはインド人ぽいよね、と若いノルウェー人のパフォーマンスアーティスト、オーセが言った。
ヨーテボリから来た建築家のレイフは、こちらが困るような質問はぶつけてこなかった。彼がチョコレートクッキーをひとつくれた。年配の日本人画家じゅん子からは、にんまりと笑った妖怪が描かれた丸い扇子をもらった。
テラスの一行が盛り上がってきた頃、私はそっと抜け出してあの静かに流れる川のほとりへとやってきた。階段に座って川に足を浸す。冷たい水が足をすり抜けていった。白い蝶が、通り過ぎる。辺りに暗闇が降りてきて、古い石橋のアーチの下を飛び交うコウモリの姿が見えてくる。
次の朝、母はふとしたことで彫刻家と激しい言い争いになった。平和の天使がバラバラに破壊されてガラクタの山になる、不快な音が聞こえてきた。その日はずっと母とふたりで過ごし、私はいい気分だった。子ども時代が過ぎてしまう前に、子どもでいられるのはすてきな気分だ。私と母は橋の反対側に広がる緑の草に座り、私はじゅん子からもらった扇子でふたりをあおいでいた。時間を止めてしまいたかったが、教会の鐘は11時を告げ、川は緑色に、物憂げに流れ続けた。
じゅん子が橋を渡ってくるのが見えた。彼女は私たちのそばに腰をおろすと、母に題目の唱え方を教えた。
題目を唱えるというのは、自分の中にある宝石を磨き上げるということなのよ、と彼女は説明した。午後の太陽が照りつける頃私たちは橋を渡って戻った。教会の鐘が単調な音色を響かせ、母が鐘を数える。時間は5時で、母がロルカ〔フェデリコ・ガルシア・ロルカ 1898年〜1936年 スペインを代表する詩人〕の有名な詩を暗証してみせた:
時間はちょうど午後5時
少年がひとり、白いシーツを持ってやってきた
午後5時に
3.ここでダイヤモンド通りは終わる…
私は東京の銀座にあるジュエリーショップの外で、ジャン-バティストを待っていた。私は待ちきれなくなっていた:彼は12時に来るって約束したのに。誰と会っているんだろう、ドバイの宝石商だろうか? 近くには外側が滑らかにカーブしたデビアスのビルや、ミキモト真珠がある。世界は硬く冷たい、と私は考えた。ダイヤモンド通りはここで終わる。もうこの先には行けない…。
私は20歳を迎えていて、ソフトでカワイイ原宿のガールズファッションや猫カフェを体験したくてたまらなかった。その時にはもう歩行器で歩いていたじゅん子に会いたかった。おそらくはお題目を唱えるために、世界中から人々が集まる大きなホールで。
和光ビルの時計が1時を示し、人混みの中から彼が現れた。アフリカのような趣(おもむき)の銀座中央通りで、私たちはふたりきりだった。
おいで、イェス、電車で御岳山へ行こう。山歩きがしてみたいって言ってたよね…。
石だらけの山道を歩き出した時にはもう、昼間は過ぎて夕方へと向かっていた。川は音を立てて勢いよく流れ、太陽は山の後ろに沈んでいた。ジャン-バティストは谷間を小走りで抜けてコキリの森へ、キンドゥの難民キャンプへと向かっていた…。私は苔むした緑の石の上でよろめき、老女になったような気分だった。黒いワタリガラスが境内に立つ樹々で身体を揺らしている。
夕方遅く、私たちは宿のバルコニーに座り、世界で最も深い緑色の煎茶を飲んでいた。ジャン-バティストがトルコ石色の小袋を取り出した。ティファニーの小袋だ。中には同じ色のジュエリーケースが入っている。ベルベッドのクッションの上に、プリンセスカットのダイヤモンドリングがのっていた。
私、こんなのもらえないわ、ヤンネ。すてきすぎる…。
戸外ではピシリと竹が跳ね返る音がし、茂みではひとりぼっちの鳥がさえずっている。淡いピンクの花々をゆっくりと舞い散らせるかのように、風が桜の枝を通り抜ける。雲間から月が顔を見せ、その姿がくっきりと浮かび上がる。新たな始まりのように:ほんのりと光る道、ダイヤモンド通り。