ヨーロッパへの窓

★★★★★★

Windows to Europe

チェコチェコ

忠実なるエミと別離の中で綴られた回文の詩

Věrná Emi a palindrom psaný v odloučení

ビアンカ・ベロヴァー

Bianca Bellová

Bianca Bellová was born in Prague where she lives to date with her husband and three kids, half way between her Balkan and British family roots. She makes living as a translator and interpreter. Her début Sentimentální roman (Sentimental novel) was published in 2009, followed by novels Mrtvý muž (Dead Man, 2011) and Celý den se nic nestane (Nothing Happens All Day Long, 2013). Her novel Jezero (The Lake, 2016) won the national Magnesia Litera Prize for the Book of the Year and the EU Prize for Literature and was translated into 20 languages. Mona, her last novel was published in 2019. A collection of her short stories is prepared for publication in 2021.

ビアンカ・ベロヴァーは1970年、プラハ生まれ。ブルガリア系移民の血を引く翻訳者・通訳者・作家。2009年、デビュー作 Sentimentálníromán(感傷小説)を刊行、その2年後に発表された中篇 Mrtvý muž (死人)は批評家から高い評価を得る。2013年、中篇 Celýden se nic nestane (何も起こらない一日)を発表、2016年9月に刊行されたJezero (みずうみ)で2017年にはチェコの最も著名な文学賞であるマグネシア・リテラ賞の Czech Book of the Year(大賞)ならびにEU文学賞を受賞。最新作となる小説Monaが2019年に刊行される。また、2021年には短編集の出版が予定されている。

ビアンカ・ベロヴァー
阿部賢一 訳

忠実なるエミと別離の中で綴られた回文の詩

青柳の枝にかかれる春雨は糸もてぬける玉かとぞ見る

 雨が降っている。やや強い雨が止む気配はなく、このまま朝まで振り続けば、大きな水たまりが道端にいくつもでき、中庭のアジサイも、庭園の木々も根元まですっかり濡れてしまうだろう。エミが横になっている庭小屋の屋根に降り注ぐ雨粒は重い鎖のように連なって小屋の脇の大きな桶に注ぎ込んでいる。桶はすでに一杯で、溢れ出した水が芝生に流れ出ている。エミは寒さのあまり体を震わせ、毛布を顎のほうへ引っ張る。ヒーターはすでに冷たくなっている。エミはケンゾーの顔を思い出そうと、ケンゾーのいるほうを爪先でまさぐってみる。彼女の足それ自体が、布団の中で目をつぶったまま触れた手があった場所と角度をひっしに思い起こそうとしているかのようだった。けれども、ケンゾーのいた場所はひんやりとしていて、誰もいない。残り香すらない。エミが洗わないよう言いつけたにもかかわらず、女中はケンゾーの寝具を洗濯してしまい、ケンゾーはエミの淡い記憶の中にしか留まっていなかった。プラムの花びらで敷きつめられた芝生の上で、突然何も言わずにケンゾーが背後からやや乱暴に襲いかかり、愛を交わしたあの月明かりの夜。さめざめと泣いていたエミはケンゾーに気づかれないよう涙をぬぐっていた。もしかしたら離ればなれになったせいで発狂してしまわないようにと、その夜にあったことも、エミが想像力を膨らませただけなのかもしれない。屈強で頑健なケンゾーが家の中でとても華奢なエミを抱き上げ、かれの腕に二度ほど飛び込んだこともあったが、一旦外に出ると、ケンゾーは礼儀正しく振る舞い、厳しい表情を浮かべていた。知事の地位はそれなりの威厳を伴うものだったからだ。

 あの人たちがケンゾーの許を訪ねてきたのは、今日のような、雨の降る夜だった。ケンゾーはどこか遠くをさまよっているかのようにぐっすり寝ていたので、エミはすぐには起こせなかった。「誰か来たわよ、ねえ、何かの間違いでしょ?」ケンゾーは怯えた獣のようにすこしびくついてエミを見つめた。ケンゾーはエミの言葉を一瞬呑み込めていない様子だったが、彼女をぎゅっと抱きしめた。そして逃げ道を探すように寝室を見回すと、頭を手でゆっくりと覆った。服を着て、厚手の服はそんなに持っていけないかもしれないからとエミはケンゾーに声をかけたものの、「連行される場所はきっと……」と言おうとしてエミは口をつぐみ、自分の声が震えているのをどうにか抑制した。ケンゾーに強くない女は似つかわしくない。衣服、それに暖かいコートをどうにか着せると、ジャスミンオイルの匂いがする自分のハンカチ、それからマットレスとマットの間に隠していた小銭の入った袋をケンゾーのポケットの中に忍ばせた。けれども、ケンゾーが最後にエミの姿を見ることはできなかった。犯罪者やごろつきから知事の身を守っていたはずの裁判所の二人の職員に連行されていったからだ。担架すら用意されていない、ひどい待遇だった。こういうのはありえない、とエミは思った。ほんとうの愛の物語ならば、互いに視線を交わし、男は「元気でな、じきに戻るから」と言葉を残し、女を強く抱きしめたりするはず。だが、ケンゾーは振り返ろうともしなかった。「絶対、あなたとは別れない」。エミはケンゾーの背中目がけて声を上げた。ケンゾーは頷いたようにも見えた。もしエミがケンゾーの勇敢さを知らなかったら、全身を震わせているように思ったことだろう。

 まだましなひどい可能性、とてつもなくひどい可能性の両方がエミの頭をよぎったが、しまいにはまだましなひどい状況にいるのがわかった。あの日以来、姿を見ることは叶わないものの、処刑台送りになってもいなければ、囚人の二人に一人は一か月も生き延びられないという刑務所行きにもなっていなかったからだ。ケンゾーが送り込まれたのは砂漠にある小さな居住区で、そこには、ケンゾーがこよなく愛していた折り本の詩集もなければ、米菓子の店もなく、好きな時に存分に顔を洗える十分な水もなかった。遠く離れていても、達者で暮らしている、それが大事だった。

 もうぐっすり眠れる日は訪れず、来る日も来る日も夜に目が覚めてしまうことも、エミはわかっていた。庭小屋の窓は板張りで固定されていたため、月明かりが外から入り込むことはなかったが、ベッドの上で寝転がっているうちに闇に目が慣れ、ものの輪郭だけは識別できるようになる。ベッドで起き上がると、毛布を触わりながら木靴を履き、半纏を羽織った。闇の中でタイプライターの前に坐って、心の中で何かを描きはじめた。空が白みはじめると、エミは日光を中に入れ、頭の中で描いた内容を紙に記した。二十九行からなる二十九連の詩に、自分の心の動き、失望、欲望、そして苦痛を書き込もうとした。

 全体を取り囲む端の一行は独立した詩篇をなし、中の詩行は水平にも、つまり前からも後ろからも、そして垂直にも、つまり下からも上からも読め、それに文字の色毎にも読むことができた。二行詩の二行目は次の二行詩の一行目と韻を踏んでいる。その詩には、三千を超える四行詩が編み込まれていた。

 エミは、一日目の晩に早くも背中の痛みを感じていたけれども、紙の上に身を屈め、見えなくなるまで書き記した。蛍が交尾を始めるようになると、村の子どもを二人ほど、蛍を取りに田んぼに送ると、薄い和紙の提灯に蛍を入れて、その光で夜も文章を書き続けた。文章がにじむので泣くまいと決心し、執筆しているあいだは涙をこらえた。宮廷詩人として、書き手の慎ましさと規律を身につけ、頭の中ですでに余計な言葉や文句を消し去っていた。

 けれども、ケンゾーに伝えるべきことはあまりにも多くあった。稀に見るほど桃が豊作だったことや、満月の翌日、青い霧が宮廷に立ち込めること。かたやエミの実り豊かな子宮は孤独にさいなまれていたこと。寒波で国中の作物が全滅したため、街が飢餓に瀕し、住民が猫という猫を食べ尽くすと、今度はネズミが増え、備蓄食料を食べたばかりか、人間にまで危害を加え、エミの足首もかまれたこと。ネズミと対決すべく、皇帝みずからが自分の猫を派遣した。猫は、エミも作製を手伝った特別な絹の紙が敷いてある金ぴかの十台の車に、皇帝自らの手によって載せられた。宮廷属を示す黄金の徴を首につけた何十匹もの猫の姿を見て、街の住民がいかに興奮したか。ネズミとの闘いで命を落とした猫には彫像が建てられ、豪華な葬儀が執り行なわれた。

 来る日も来る日も待ちわびていたエミは、夫にまつわる報せであればどんなものであろうと法外な額を躊躇なく支払っていた。ケンゾーの服が仕舞ってある棚に向かい、顔を服にうずめて、ケンゾーの顔の輪郭をどうにか想い出そうとしたこともあった。街では、それぞれ別の方向を眺めている、頭がふたつある子どもが生まれてもいた。紐が千切れないよう、真珠で結ぶようにともらう時にケンゾーから言われた真珠のネックレスを無くしたこともあった。警告通りに紐は切れたのだが、どうしてエミは云うことを聴かなかったのだろう? 宮廷から目をつけられているとはいえ、ケンゾーの両親は息子の無事を祈っていた。エミも時折宝石を届けに訪問しているが、ほかに二人を気にかける者などいるのだろうか? 川の波止場に出掛け、浮浪者のポケットをまさぐっては天使のような笑みを浮かべる子どもたちを眺めていたこともある。エミもいつか、二人の愛の賜物を産むつもりでいた。頰に紅をつけて、ケンゾーの家に初めて足を踏み入れた十六の時から心構えはできていたのだから。

 葡萄の粒を飲み込んで、意識を失いかけるほど息を詰まらせたときに恍惚を感じたこともある。というのも、心の中では正真正銘の男と共に連れ添っていて、山の湖畔で腰掛け、太陽をちらりとみているかれの手の甲にそっと触れていたから。けれども意識を取り戻すと、失望のあまり声を張り上げた。ネズミも訪れなくなった庭小屋で、自分がたった一人でいるという事実に直面したからだ。

 老人の頭に流れる思想のように、夏の空に長く伸びている雲を見ていたこともある。あの人もまた、砂漠で同じ雲を眺めているのだろうか? 私のことをいつも思っているとキスと癒しを雲にのせて送ってほしい。昨年、災害が蜂の群を襲い、命を落とした蜂が空から次々に落ちてきたが、今年の蜂は十分にいるので、朝、蜂の音で目が覚めてしまうこともある。蜂が眠りにつき、日が暮れると、宮殿を離れて庭小屋に身を寄せた忠実な娘エミは、蜂蜜がたっぷり取れるようにと小屋の敷居でオカリナの演奏を始める。そして裁判官が没収するのをどうにか免れたケンゾーの刀に触れながら、眠りに落ちる。

 準備が整うと、婚礼衣装をほどいて、赤、黒、黄、青、緑、紫の絹でブロケードを縫いはじめた。あまりにも長い時を要したので、縫い終えたころには、エミの背中はすっかり曲がっていた。詩を書き、縫物をしているあいだに、ほんとうであれば二人の子供を産むこともできた。指は傷だらけで、目はひりひりしたが、巧みな作品は完成した。帝国史上類を見ない回文の詩。それは、この世でたった一人、彼女の法律上の配偶者しか理解できない詩だった。詩の中央にはハートマークが記されていた。そう、ようやく、エミは使者を送る準備が整った。

 かさかさの掌で縫物のレリーフを触れる。その詩には、この間に彼女が白髪になったことを告げる言葉はない。かれが流刑になってから一週間後、血まみれのなかで目を覚まし、二人の子供になり損ねた血の塊を一人で葬らなければならなかったことへの言及もない。流刑地でケンゾーが別の女と結婚したと聞き、滝の崖の上から身を投げようとしたことにも触れていない。追放の身にある、愛する人には、こういったことは何も知らせてはいない。

***

 一か月が経過したある雨の降る日、エミは返事を受け取った。全身ずぶぬれで、寒さでかじかんでいる使者は濡れた手紙を扉に差し込むが、背中からは雨が何本もの太い縄となって垂れていた。エミは目を見開いて使者を見ているが、言葉を発することはない。そのあと、手を震わせながら濡れた手紙に触れ、にじんだ文字を読みはじめる。そう、エミは、ケンゾーにとってたった一人の女性であり続け、ケンゾーは彼女を一人にした罰として重い岩や丸太を来る日も来る日も運んでいた。エミの赤い頰を思い浮かべない日はなかった。その日が訪れるのをひたすら待っていた。明日になれば旅に出て流刑地から家に戻るのだ、と。

 ケンゾーが忠実なる妻の許へ帰ったかどうかも、不幸せな女が一人で齢を重ね、床を一人で使い続けていたかどうかもわからない。ただ二人は遥か前に骨そして塵となり、この感傷的な物語が読まれるようになるころには悠久の時間が流れていた。エミが綴った傑出した詩は、あれから千年の月日を経て、詩の達人たちから賞賛されたという。

2020年5月19日、プラハ。