ヤーニス・ヨニェブス
黒沢歩 訳
勝利
ことを成し遂げたいのなら、まず何をしたいのかを知ること。全意識を結集させて。「現実は鋼の意志力で変えられる」と、党の方針にもある。ただし選ぶこと、何をしたいのか。
グレーテルの意志は、さまざまな成長の段階を経てきた。つい最近まで菩提樹の下で踊って、漫然と暮していた。時代の意味に気づいていなかったし、ひとつひとつの歩みと思考が壮大なことに向かうべきだとは理解していなかった。
当時のグレーテルの望みをあえて見つけ出そうとするならば、もう少し痩せたいということだった。堕落した退廃が尾を引いて国を漂い、悪夢のような美の理想像にとりつかれていた。
長続きするわけがなかった、この世界が困難も目的もないままに。偉大な時代が、義務と使命を伴って到来した。グレーテルは理解した、自分のかつての願い事がなんとくだらなく、つまらなく、ちっぽけなものばかりだったか。彼女は、そのすべてを乳児のおしゃぶりのように放り出し、もう決して考えなかった。
いまやグレーテルは、この新時代を築いた人々を崇拝していた。ちっぽけな願いなど持たずに、まさに目的だけをはっきりと見据えてきた人々を。
どういうわけか、とりわけ彼女が崇拝したのはヘンゼルだった。その理由はあれこれたくさんあった。ヘンゼルは勝利と思想の話をほとんどしなかったし、そもそも無口だった。またも、はびこりだしたつまらぬこだわりが、彼には感じられなかった。とても心やさしく思えることもあった。いつもまじめなのに、暗くはない。まもなくグレーテルは、ヘンゼルに愛されたいという強い願いを意識せざるをえなくなった。それはむしろ、自分のほうこそヘンゼルを愛しているということを意味した。どこかで読んだことがある、愛とはただとても強い願いだと。どこだったかしら。訊いてみたヘンゼルも、それが誰の言葉か、思い出せなかった。そしていつものようにそそくさと行ってしまった。グレーテルとの話の途中で、さっさと。彼には片足がなかったというのに。
グレーテルのような美女が片足に恋をするとはなんとすばらしい、と思われるだろう。だが、グレーテルが絶世の美女だと、どこにも言及されたことはない。それに男たちといえば、この部局では管理職をのぞいて、みな変わり者揃いだった。ヨーゼフは弱視、ヴォルフガングは脳性麻痺、フリッツにはユーモアのセンスがまるで欠如していた。ここではヘンゼルだけが戦地から戻り、地位も所属もない兵服を着て腰にピストルをつけていた。グレーテルは彼の手柄を、その苦しみを考えると、またも自分が恥ずかしくなり、そのため私的なことをすべて投げ捨てて、ひとつの重要な目的に意識を集中させた、なによりも強い願いに、それはドイツの勝利だ。
よりにもよって、いまになって忘れていたちっぽけな願いが叶った。グレーテルはすっかり痩せ細っていた。部局のみんなのように。この町のみんなのように。
グレーテルとヘンゼルが勤務していた部局は、もちろん機密だった。自分たちが実際、何に関わっているのか、彼らはまったく知らず、むしろそうあるべきだった。当初、彼らは考えてみようともしなかった。自分が重要な職務についているということ以外に、何も知らずにいるというのはなんといいものか。自分の日々の営みに秘めた力があると意識すること。彼らは信じて疑わなかった――自分たちの働きは、全体の、不可避の、来たる勝利に寄与するのだと。
戦局が危うくなり、管理職が頻繁にオフィスを留守にすると、規律がゆるみ、部局では同僚が互いに自分たちの職務の性質を推測しはじめた。大方が、Wunderwaffe――“ミラクル兵器”に関与していると考えていた。それひとつで戦局が決まる最新兵器だ。彼らがこれまでに開封せずに捺印し、明細を記し、発送してきた荷物は、きっとミラクル兵器の部品、新規開発の薬品サンプル、草稿だったのだ。この部局は、研究者と軍部との仲介の役目を果たしていたのだ。
「その話はやめておきましょう。機密です」
ヴォルフガングが言った、そのとおりだった。
前線が間近に迫り、管理職がますます不在になると、同僚たちはミラクル兵器をそれぞれに推察しだした。
ヴォルフガングの考えでは、絶大な効果を発揮するのは太陽砲だ。それは地上から8200キロメートルの軌道にあって、凹型の鏡が太陽光をひとつの破壊的なビームに集約し、敵の兵力を焼き尽くす。いまごろ、鏡が上方に据え付けられているかもしれない。なにかに手間取っている可能性もある。いまにも電話が鳴って、書類やらを探し出して接続の詳細を確認するように指示があるだろう。
ワーグナー婦人の考えによれば、軍部は音波大砲に取り組んでいる。それは、ジェリコのラッパとか声量のある歌手が大音声でグラスを割るのに似た機能をもつ。それを可能にするには、グラスと共鳴する正確な音域を見つける必要がある。そのような音域、そのような振動の振幅というものは、どの物体にもある――戦車、戦闘機、爆弾にも。音響測深器に類似する性能の装置を用いれば、おのおのの物体に特有な振動の周波数を分析できるだろう。戦闘を前に敵軍の各部隊特有の周波数がわかるようになる。音波大砲……
「かなりの音ですか。味方の兵士にうるさすぎませんか。命令が聞こえますかね?」
フリッツが尋ねた。ワーグナー婦人はつづけた。
「たぶん、人には聞こえない音なのです、私たちには極端な高音も極端な低音も聞こえないのと同じようにね。むしろ振動の大砲と呼べます。それは自己周波数のある物体にだけ効力を発揮するのです。周波は戦車とか戦闘機に向けられ、標的は振動し始め、粉々に砕け散ります。とても人道的な兵器ですよ、破壊するのは戦闘の乗り物だけで、人には危害を加えませんからね」
「そっちはその後に機関銃で撃ち落とせます」
フリッツが付け足した。
ヨーゼフがつっかえないように気をつけながら、自説を唱えた。
「覚えておいてください……重要な武器は希望です。サイコトロニクスかなにかの方法が仕掛けられているのです……そう、そうです。この機器の標的となるのは、その、いわゆる“希望の結晶”です、脳下垂体あたりにあるという……」
「ぼくが思うに、この戦争はもっと実用的なもので十分です。ミズガルズの大蛇*だ! 500メートルの鋼鉄です! さしずめ、驚異的な機械はぼくらの足下を掘っているかもしれません。ぼくは、地面が軽く揺れているような気がするんです。ミズガルズの大蛇はロシアの陣地に接近しています。じわじわと掘り進んでいるのです。ロシアの背後の奥深いところで地上に這い出せば、一帯は木っ端微塵です!」
「やっぱりそういう話はやめておきましょう」
「そう、そうです」
管理職はとうとう戻ってこなかった。しばらくのあいだ、同僚たちは推測した、いったいどうしたのだろう。重要な部品を軍部に渡したのだろうか。どっちにしろ、それにはさして時間はかからない。ヴォルフガングが言った。
「可能性として大きいのは、ヒマラヤ、チベットに遠征に出たということです。そこで地軸をドイツに有利な向きに回そうとしているのです」
「すみませんが、地軸はチベットにあると?」
「精神世界の軸のことです……私の理解が正しければね」
グレーテルはこの考えが気に入った。どこか遠くで何かを回せば、それでよし、世界は正しい向きに回り出す。
とはいえ、大方、管理職の車に爆弾が落ちたのだろう。周囲に響く爆音は、頻度を増し、ますます接近していた。
いまこそミラクル兵器についてあれこれ雑談ができるというときに、もう誰も話そうとはしなかった。答えの出ない話題は、ふいにのどかな現実味のあるテーマにもどった。
「どう思います、今日は雨になるかしら?」
ワーグナー婦人が訊いた。誰も答えられなかった。
「そろそろスズランが咲くころです。降れば恵みの雨だわ」
グレーテルはワーグナー婦人に答えて言いながら考えていた、この近くのどこに花があるかしら。きっとドイツ国境の外側にしかない。自由なドイツの、本来の国境が接するピレネーからウラルまでなら、スズランがごまんと咲いていた。ところが、目下、ドイツ国境はここ、ベルリンの中心に見えている。今日は二区画先の近さに迫ってきていた。粉塵の雲が晴れた合間に、グレーテルはそこ――ドイツ国境に、見慣れない戦車の影を見た。戦利品かしら、と思った。
いまや、ヘンゼルの愛よりドイツの勝利のほうが信じがたくなった。それはそれで、とかく我々は安易なほうになびくものだ。
同僚たちの話はつづいていた。フリッツがまじめに言った。
「キュウリも雨が要る」
ワーグナー婦人が口をはさんだ。
「4月末にキュウリ? 都会人ね! よくても種蒔きはまだこれからですよ」
今年は蒔かないかもしれない、とグレーテルは思った。
窓の向こうのすぐそばで、爆弾が落ちたらしい。
「えっ、何ですって?」
炸裂音がおさまったとき、ワーグナー婦人が訊き返した。フリッツが答えかけると、またも近くで爆弾が落ちて煉瓦の壁が崩壊し、ワーグナー婦人は質問を繰り返す羽目となった。
「いま何て? 聞こえなかったわ」
「キュウリの耳栓かよ! 知ったかぶりの田舎者が!」
ワーグナー婦人がこれに言い返そうと口を開けようとしたとたん、よりひどく口を封じ込まれた。至近に命中したのだ。建物がぐらぐらと揺れた、それまでもう何日も何度も揺れはしたが、こんなにひどい揺れはなかった。とどろきで耳鳴りがしばらく止まなかったが、やっと聞こえるようになったとき、ヨーゼフが叫んだ。
「地下室に行こう!」
「いや、サイレンは鳴ってない。大丈夫です」
フリッツが応じた。サイレンが作動しなくなってもう何日目だったか、もちろん、ただ壊れていたにすぎない。それとも耐えきれなかったのか。本来、休みなく鳴り響いているはずだったのだ。
粉塵が視界を閉ざした。たとえほんの一瞬でも、この町を見なくてすむのか。いまとなっては信じがたい、そもそもこの町はかつて存在したのだろうか、とヘンゼルは思った。絵筆とグラス、菩提樹と自由奔放……とりあえずは言える、そのすべてがかつてこの町にあった、だが確かなのは、その時がもう二度とこないということだ。
きっと町自体も消える。おそらくこの場所を地ならしして、タールで真っ黒に埋めつくすだろう。それとも掘り起こして植林するかもしれない。狼がこの森で昼も夜も吠えつづけ、眠りにつくことはないだろう。もう二度とこの場所で、笑うことも酔いしれることも踊ることもないんだ。ここではもうなにもありえない、グレーテルなくして、その震える肩と沈む心なくして。力を合わせて達成したことがこのベルリンの最期だったとは、とても喜べない。
いったい他にどうしようもなかったのか。すべてこうならざるをえなかったのか、彼らが願っていたものが何かを理解するために。
私たちの希望はどこかで狂ったのか。未制御のサイコトロニクスのビームやらが私たちの希望の結晶に命中してその構造を破壊し、結晶が崩れてきてひりひりと痛む。
グレーテルはワーグナー婦人のことを考えた、どうして雨の話をしたのかしら、本当は自分が泣きたくなったからなのか。それにヴォルフガングはうまく身を隠せたかしら、かなり不器用な人だから。さらにもっとヘンゼルのことを思った。破片が目に入らなかったかしら。
粉塵がようやくおさまり、視界が再び開けてきた。そこにみんながいた。
「みなさんにまたお目にかかれて嬉しいです。どなたか一服いただけませんか」
ヴォルフガングはふざけてみせたのだろう、シガレットはひと月前に切れていたのだ。
「さあ、仕事に戻るとしましょう」
別の声が言った。
そのとき誰もが気がついた、壁にかけてあった元帥の巨大な肖像画が落ちていたのだ。
「ああ、なんと惜しいことを」
いつまた私たちはまともに話すことを学ぶだろう、諦めと嫌みを込めずに。きっとその時は二度とこない。
ところが、その肖像画がかかっていた壁のところに黒っぽい線が見えていた。亀裂ではなく、まっすぐに貫いた線……
「あれはドアだ!」
叫ぶヘンゼルの声は弾んでいた――久しぶりに聞く抑揚だ。ヘンゼルの指がドアの線をなぞった。
ヨーゼフがそのとなりに立った。
「失礼しますよ!」
盲人のセンスで触れるというのは、うまい考えだった。彼が目立たないでっぱりを押したところ、壁の奥でカチリと音がして、その線はより太くなった。ヘンゼルが壁から短剣――ナチス親衛隊が彼らの功績に対して与えたものだ――を取り外し割れ目に突き刺すと、また少し開いた……
「待ってください!」
ヘンゼルはみんなのほうに向き直った。
「何です?」
「そこに入ってはいけません。機密文書があるかもしれませんよ」
「秘密の通路かも?」
「どこへ。いま、どこへ出る通路がいいんだい? アフリカ?」
「黒人は嫌いだ」
「ぼくは金があるんだと思う」
「や、そうか、いまこそありがたいね!」
ヴォルフガングが両手を挙げた。
「どうか待ってください。ぼくに考えさせてください、そこに何があるのか。もしかしてミラクル兵器か。それとも機密コードのキーか」
「開けてください!」
グレーテルはヘンゼルに向かって断固として言った。彼が開けようとしている間にグレーテルは考えていた、ドアに地雷が仕込まれているかも、そうしたら私たちはみんなこの瞬間にここで死ぬ、せめてあと一日は生きていられるはずなのに。ところが、開きかけたドアは予期されたような厚みもなく、あっけなく開いた。とたんに香りが怒濤のごとく押し寄せた。
そこは大きな金庫となっていて、ボトルで埋めつくされていた。その2本は割れていた、きっと爆撃のせいだ、それでこの香りなのだ。でも、棚にはまだ数百本が残っていた。その場の誰も、こんなに多くのボトルを一度に見たことはなかった。機密の薬物、毒薬、超強力の燃料なのだろうか。それぞれ形の異なるボトルに、ラベルがついていた。グレーテルもみんなの解読に加わった。“Castarède Armagnac 1890”、“Plymouth Gin”、“Whiskey”、“Whisky”、“Kentucky Bourbon”、“Хлебное вино”、“Eau de vie”、“Gazdova Slivka”、“Żubrówka”、“Domaine Dupont Calvados”、“Absinthe”、“Cachaça Bayu”、見知らぬ、聞いたことのない名前……これは暗号かしら。
さらによく見ると、そこにはボトルのほかにも、カーボンのタバコ、それに各種ブランドの葉巻とシガレットがあった。
「これはぜんぶドイツのものです」
フリッツが言うと、ヨーゼフが付け加えた。
「その通りです、ごもっとも」
ヴォルフガング:「ドアを閉めましょう、肖像画を壁にかけて、仕事に戻りましょう」
フリッツ:「そうすべきでしょうね」
――20分後、フリッツは嘔吐した。でもそれで床がさらに汚れるわけでもなかった。床はとっくに汚れてべたついていた――ガラス片、破れた書類の屑、落下した鉢植えの土。ヨーゼフも吐き気を催しつつ、笑顔で言葉を搾り出した。
「あなたも一緒にやりませんか、せめてこのモーゼルワインの味見でも?」
フリッツが吐きつづけながら怒鳴った。
「おまえも飲め!」
ヴォルフガングが言った。
「一瞬でも許しが与えられる定めならば、辞退は冒涜です」
グレーテルはワインが見つからないので、ラベルに美女が描かれた緑色のボトルを手にした。栓が開けられずに見回すと、みんなはボトルの先端を割って解決していた。その唇からは血が流れ、笑うと赤く際立った。さすがにグレーテルには怖くてできなかった。彼女がひるんでいる隙に、ヘンゼルがその手からボトルを取りあげ、先端を割って返してくれた。液体は口をつけるより早くガスのようにめまいをひきおこし、体内の細部をかけめぐってスーパー爆弾のように炸裂した。ヘンゼルがやや軽めの飲み物を手渡してくれた (バーボンだ、ワインとシャンパンはどこに隠されたのか。きっとこれはいざというときの備蓄なのだ、度数の強いものしかない、それはそれでいい)、そのお陰で、まもなくグレーテルもみんなと一緒にフリッツのジョークに声をあげて笑っていた。ヴォルフガングはといえば、窓際で用を足しながら、爆撃の方角に向かって知りうる限りのロシア語で怒鳴っていた――プーシキンの詩の数行は、文学畑にいたときに覚えたものだ。ヨーゼフは床にこぼれた液体に手を浸して、それを床になでつけながら言った、さあ絵を描きはじめるぞ、才能はずっと眠らせていた、いまこそ解き放つのだ、最初の作品はワーグナー婦人の肖像画がいい、しかも絶対にヌードで。モデルに指名されたほうは、サイレンのような高笑いをあげていた。ヘンゼルは松葉杖を放り投げて、床の上に倒れ、そのままの姿で言った。
「ぼくの人生は退屈だった。規則と道徳に従うだけだった」
グレーテルはまたもヘンゼルが哀れになった、いったいこれっぽちの退屈な人生の価値しかないなんて、かわいそうなヘンゼル、哀れな男、男ってなんて弱いの。グレーテルはヘンゼルを抱きしめた。
まわりですすり泣きが聞こえていた。グレーテルは目をあげた、誰か怪我でもしたのか。銃撃は一時も休まらなくなっていた。ワーグナー婦人の制服のブラウスはすっかり前がはだけて、おお、その乳房はまるでふたつのツェッペリン、5月の日差しに照らされて上下しながら常に凛としていた。ワーグナー婦人の腰下でもがいていたフリッツは、息づかい荒く身もだえしながら、ワーグナー婦人に後押しされていた。
「いって、私のキュウリ!」
ヴォルフガングとヨーゼフはそのすぐとなりで絡み合っていた、自由の闘いだ、ふたりはそれを勝ち取り、このドイツにしかない最大の自由な愛に互いに突き進んでいた。グレーテルの頭をよぎった、だってヨーゼフはほとんど見えていないじゃないの、それで……そんなのどうでもいい。グレーテルはふたりの到達を喜んだ。
ヘンゼルがグレーテルを抱きしめた。実際、最後に生きるチャンスを拒否する権利があるだろうか。私たちにはもうなんの権利も残されていない。
グレーテルは自分の夢をすっかり忘れていた、というか、忘れていたのではなく、ただ考えることをやめていた。諦めていたといってもいい、たぶん、でも決して手放してはいなかった。それをいま思い出した、まさかこうなるなんて、とっくの昔にありえないとわかっていたのに、それがいま、そのヘンゼルが、ここにいる、1ミリメートルの隙間もなくぴったりと……ヘンゼルが言った。
「好きだ」
ほかにも、甘い心のこもった言葉を。オフィスの天井高く地位も所属もない兵服が放り投げられ、仕事着のブラウスも舞い上がった、グレーテルにはもう必要なくなったのだ。私の童貞の孤独なヘンゼル、童貞でも孤独でもなくなったいま、私だけのもの。オフィスに甲高い叫び声が響き渡り、窓の外の悲鳴と混ざり合っても、それが聞き取れなかったのは攻撃の爆発と銃声もおびただしくなったからだが、ここでは誰もそれに気づかなかった、ここにはここでのいくつもの爆発があった。
グレーテルがヘンゼルの髪を撫で、その額に口づけをすると、塩辛い汗と甘いバーボンの味がした。
「私たち、出会えてよかった!」
「ずっと君を愛していた」
「私も」
「これからもずっと一緒にいる?」
「そうならないわけがないわ」
「ところで」
分け入ってきたフリッツは、グレーテルの裸にも自分の裸にもまったく恥じ入る様子がなかった。
「ぼくは運輸省で派手なパーティに行ったことがあるんだが、これはそれに負けじと劣らずだな」
ヴォルフガングはシガレットの煙を吸い込んで言った。
「そう……そうです……天にまします我らが父よ……」
「あなた、本気?」
ワーグナー婦人が訊いた。ところがそのときどこか至近距離で砲弾が炸裂し、漆喰と煉瓦の破片が降りかかってきた。グレーテルが裸体でヘンゼルをかばったというのに、彼は片足で這いだして、窓に近寄っていった。グレーテルは留めようとした、ねえ、何が見たいのよ? その間に立ち上がっていた彼が寄りかかった壁は半分しかなく、覗いた窓はもう窓の形態をなくしていた。視界が開け、ヘンゼルは見ると、目を見開き、叫んだ。
「グレーテル!」
床の上に横になったまま膝を抱えて縮こまっていた彼女は、頭も上げずに聞き返した。
「何?」
「ロシアが逃げていく! わかった! 超強力兵器を使ったんだ、まさにエネルギー放射だ! こんなこと考えられない! 戦車が砕け散って、タンポポの綿毛みたいだ! ロシア兵が逃げていく! あの兵器にお手上げだったんだ!」
「それって……」
「そうだよ、グレーテル! ドイツが勝ったんだ!」
まさか、とグレーテルは思った。勝利とは。どういうわけ。彼女は自分に罪があるような気がした。すべてを失ったいま、とつぜんすべてがあった。なんということか。彼女はみんなに許しを請いたくなった。わけがわからない気持ち。
「見てごらんよ、グレーテル! 信じられないよ、見てよ!」
その一瞬、少しも見たいとは思わなかった、でもこれは歴史だ、グレーテルは見ようとして立ち上がった、ヘンゼルがその両肩にうしろから手を置いて押した、ほら、あそこだ、あそこを見て! 彼女は見た、光に目がくらんだ。
その瞬間、ヘンゼルが彼女の後頭部を撃った。床に倒れ込んだとき、彼女はすでに死んでいた。
茶番かもしれない、けれどもヘンゼルはグレーテルが死ぬときに幸せであってほしかった。彼女に罪があるわけはなく、彼にほかになしようがないのなら、せめてこうするしかない、彼女がこれ以上償わなくていいように。
彼はもういちど窓の外を見た。コニャックのボトル半本を空ける時間はまだあるだろう。それとも座っていようか、このまま、グレーテルのとなりに。
*北欧神話に登場する毒蛇の怪物。1930年代にドイツで研究された特殊兵器で、蛇のような形態を持ち、ドリルで地中を掘り進み、地下に爆薬を設置して破壊する設計であったが実現されなかった。