ヨーロッパへの窓

★★★★★★

Windows to Europe

アイルランドアイルランド

The Fire Startersより

excerpts from The Fire Starters

ジャン・カーソン

Jan Carson

Jan Carson is a writer and community arts facilitator based in Belfast, Northern Ireland. She has a novel, Malcolm Orange Disappears and short story collection, Children’s Children, (Liberties Press), two micro-fiction collections, Postcard Stories and Postcard Stories 2 (Emma Press). Her novel The Fire Starters was published by Doubleday in April 2019. It won the EU Prize for Literature for Ireland in 2019 and the Kitschies Prize for Speculative Fiction in 2020. It was shortlisted for the Dalkey Book Prize in 2020. The Last Resort, a ten part BBC Radio 4 short story series and accompanying short story collection is forthcoming from Doubleday in early 2021. In 2018 Jan was the inaugural Translink/Irish Rail Roaming Writer in Residence on the Trains of Ireland. She was the Open Book Scotland Writer in Lockdown 2020.

ジャンカーソンは、北アイルランド・ベルファストを拠点とする作家、コミュニティアート・ファシリテーター。作品には小説 Malcolm Orange Disappears (LibertiesPress)、短編集 Children’s Children (LibertiesPress)、およびマイクロフィクション集 Postcard StoriesPostcard Stories 2 (Emma Press) がある。2019年4月に刊行した The Fire Starters (Doubleday) は、2019年にEU文学賞を受賞、2020年にキッチーズ賞(スペキュレイティブ・フィクション)を受賞、ダルキー文学賞の最終候補作となる。2021年初めには、10回にわたる BBC Radio 4の短編シリーズ The Last Resort およびそれに伴う短編集をDoubleday より刊行予定。2018年、アイルランドの鉄道会社トランスリンクおよびアイリッシュ・レールの電車を利用して活動するローミング・ライター・イン・レジデンスに就任。2020年のロックダウン下では Open Book Scotland の作家となった。

ジャン・カーソン
加藤洋子 訳

第1章 これがベルファスト

 ここはベルファスト、ベルファストであってベルファストでない場所。

 この街のことは、何であろうとありのままに言わないほうがいい。名前や場所、日付やセカンドネームは使用を避けた方がいい。この街では、名前は地図上の点、印字された言葉にすぎない。必死に真実を伝えようとしたところで、この街では、真実はこっちで丸、あっちでは四角。その形を見極めようとすると何も見えなくなる。“北アイルランド紛争(ザ・トラブルズ)”から十六年経ったいまでも、距離を置いて、「わたしには何も変わっていないように思える」と言うぐらいにしておくのが無難だ。

 “ザ・トラブルズ”はおさまった。新聞もテレビもそう言っていた。ここで暮らすわたしたちは、信仰心が篤い。すべては自分たちのためだったと信じたい。(指を突っ込んで掻き回して、その証をなんとか探し出そうとしている)新聞やテレビは信用できなかった。自分の背骨で感じる直感が信じられなかった。あまりにも長い年月、ひとつの姿勢を取りつづけたから、背骨自体が曲がったままだ。まっすぐになるのに何世紀もかかるだろう。

 “ザ・トラブルズ”は始まったばかりだ。これもほんとうとは言えない。話し相手が誰で、どういう立場にある人で、お喋りするのに選んだ日が何月何日かによって違ってくるから。わたしたちが置かれた状況を知らない人は、ウィキペディアで調べてみるといい。三千語を費やして概要が記されている。もっと詳しいことはオンラインや学術誌にあたるといい。同時に、ある種の歴史は地元住民と話しをすることで得られるだろう。断片を繋ぎ合わせるのは骨の折れる作業で、ふたつのピース、あるいは二十のピースを使ってジグソーパズルを作るのと似ている。

 “ザ・トラブルズ”は、すべてを言い表すには役不足な言葉だ。それはむしろ、残金がマイナスになった銀行口座や、徐々に空気が漏れるタイヤ、女性の月のもののような、ちょっとした不便さを表す言葉だ。暴力的な言葉ではない。むろんわたしたちだって暴力的な言葉を持っている。“アパルトヘイト”と同じぐらい無遠慮で粗暴な言葉を。それでも、わたしたちが使うのは“ハサミ(シザーズ)”のような言葉、つねに複数形の言葉だ。“ザ・トラブルズ”は、一個の怪物のようだ/ようだった。“ザ・トラブルズ”は、たくさんの個々の悪の集合体。(似た言葉に“ズボン(トラウザーズ)”や“ペンチ(プライアーズ)”がある)“ザ・トラブルズ”はつねに大文字の“T”ではじまる。ひとつの出来事のように。例えば“ヘイスティングズの戦い”のような、はじまりと終わりがあって、一年のうちのある時期に起きた歴史的出来事。それが実際には“動詞”であることは明白だ。盗みとおなじで、人間に対して繰り返し行われうる行動。

 だから、わたしたちは線を引いて区別しない。ここはベルファストではないけれど、ベルファストに似た街、ふたつの地区に分かれていて、淀んだ茶色の川があいだを貫いて走っている。道路、また別の道路、線路、煙突。機能的な都市に共通のそういったものが、ここでは使い方が限定されている。ショッピングセンター。学校。公園、それに何かに使えそうな、春なお暗い緑地。病院が三つ。ときおり動物が逃げ出す動物園。街の東側には一対の黄色いクレーンが水平線をまたいで立っている。まるでがに股の紳士みたいに。西側には丘がある。アルプスを基準にすれば、山と呼ぶのはおこがましい丘が、自分につまずいて湾へと転がり落ちている。海岸に沿っておびただしい数の建物がある。内気な海水浴客よろしく、緑の海に爪先をちょっと浸して。船がある。大きな船、やや小さな船、沈んだ船は海底にあって、この街全体を人質にとっている。未来の船は一隻もない。

 代わりにガラスと砲金灰色の建造物が、水平線に固定されている。それはまるで、かつて神の領域だった白い高みに通じる階段みたいだ。それらは、オフィスビルと、よそからやって来る人たち向けのホテルだ。大半がアメリカ人で、残りも熱心な観光客。こういう人たちにも、彼らが撮る写真にも、わたしたちはたいした敬意を払わない。彼らは、こんな街にやって来た自分たちを勇気があると、少なくとも心が広いと思っている。できるものなら彼らに言ってやりたい。「気はたしか? どうしてこんなところにやって来たの? 格安フライトで一時間の距離に、もっとふさわしい都市があるって知らないの? ダブリンだってあるじゃないの」こんなこと言ってはいけない。わたしたちはすでに、彼らのお金に依存しはじめているのだから。

 観光客を黒いワーゲン・ビートルのタクシーに乗せて、環状道路をぐるぐる、ぐるぐる回り、路地を行ったり来たりして、この街をいろんな角度から見てもらう。そうこうするうち、彼らは目を回す。目玉焼きとベーコンをまあまあ白い皿に載せて出して言う。「さあ、この街の郷土料理を召し上がれ。これで一日頑張れますよ」わたたしたちは、観光客と彼らが落とす外貨のために踊ってみせる。期待されれば泣くこともやぶさかでない。この騒ぎを、空疎なお喋りを、祖父母の代の人たちが見たら何と言うだろう。

 この街では、みんなお喋りが大好きだ。バスの中でも公園のベンチでも、説教壇のような高い場所からでも、お喋りの練習ができる。ときにそれは詩の形で、もっと頻繁には壁の落書きの形で表現される。聴衆がいるとさらに膨らむけれど、第二者は必ずしも必要ではない。わたしたちのお喋りをすべて容れておけるだけの沈黙があったためしはない。政治と宗教のような話題のときはもって回った言い方をし、歴史と雨と神の不在を十把一絡げに扱う。例のわけのわからない水循環と同じようなものだから。海を渡ったヨーロッパは(それに世界も)、わたしたちの哀しい物語の次章を息を殺して待っていると、いまだに信じているけれど、世界はわれらを待っていない。いまやテーブルのまわりは大きな声でいっぱいだ。アフリカ。ロシア。難民。彼らは酷い惨状を翻訳が必要な言葉で述べる。それに比べれば、わたしたちは濡れた紙だ。

 この街は喋りつづける。耳を傾けてくれる人なら誰にでも語りかける。これでもヨーロッパの都市なんだ、ほかのヨーロッパの都市と同じなんだ、と。この街を馬鹿にする奴がいたら、ただじゃおかない。ピザも大理石の噴水も、語り草になるほどの芸術もない。大陸の端っこにうずくまる、ヨーロッパ本土からしたら駐車場みたいな存在だけれど。この街の住人のお喋りはまったくもってあか抜けない。まるでバターを滴らせる茹でたジャガイモだ。語り草になるほどの太陽も照らないから、カフェの外に並ぶテーブルに座る人もいない。太陽が照ったとしても、背後に雨を隠す雲間からちらっと顔を出すだけだ。バルセロナやパリを都市というなら、ここは都市ではない。アムステルダムですら都市なのに。ここを都市と言うなら、それはいったん悪い意味を持たされると名誉回復が難しい言葉と同じだ。そういう言葉で最初に思いつくのが“queer”、“風変わりな”という意味だったのが、いまでは“ホモ”の意味だもの。

 なにもこの場所には魅力がないと言っているのではない。なんとか失望させようと街がいくら頑張っても、人びとはここを去ろうとしないし、舞い戻って来る人びとが後をたたない。彼らは言う。「けっきょく人なんだな」あるいは、「ここの連中より性格のいい人間を探そうと思ったら、よっぽど遠くまで行かなきゃならない」。こうも言う。「ここに来たのは気候のせいでないのだけはたしかだ」どれも一理ある。

 サミー・アグニューは生まれたときからこの街を知っている。路地や川の地図が、第二の指紋みたいに体に刻まれている。彼が口を開くと出てくるのは、この街独特の鋭く筋張った言葉で、声は鼻にかかっている。再生された自分の声を聞くことが、彼には耐えられない。この場所に我慢ならないくせに、呪うこともできない。ここからきっぱり足を洗えるなら、何でもするだろう。ここから逃げ出して、フロリダとかスペインのベニドルムみたいな温暖な土地でやり直せるなら、何でもするだろう。金魚鉢みたいでない土地ならどこでもいい。逃げ出す努力はしてきたのだ。彼の頑張りは神のみぞ知る。ところが、この土地には磁力がある。彼を説きつけ、引っ張り、舞い戻らせてしまう。どれほど遠くへ逃げようと。飛行機で、船で、あるいは日々の夢想の中で――この方法がいちばん距離を稼げる――どれほど遠くまで逃げようと、彼はあいかわらずこの街の息子だ。不実だけれど、なんとかつながっている息子。

 サミーはいま、かろうじて持ち堪えており、まあまあな住環境とよくない住環境の境界線を爪先で探っている。もともとがそういう生まれなのだから、分相応ではある。貧民街で育てば、その臭いは石鹸で洗い落とせない。慎重に距離をとっても無駄だ。彼にはここしかないし、彼の子供たちもそうだ。おなじ状況でいることは、必ずしも良いことではないが、最近では、この街からつぶやきのような希望が立ち昇るようになった。たいていは若い人たちのあいだから。誇らしげに顔をあげて言う人間たちすらいるぐらいだ。「おれはここの生まれだ。それのなにが悪い」そういう連中は馬鹿だ、とサミーは思う。子供たち、とりわけ息子のことが心配でならない。息子の中にはこの土地固有のかたくなさが見られる。失望がつきものの街でやってゆくのに、かたくなであることは最悪の生き方ではない。それでも、かたくなさはほっておくと怒りを孕み、怒りは残虐性につながる。マークを見るたびに彼はそんなことを思う。この街は息子を駄目にする。かつて彼を堕落させたように。

 ジョナサン・マリーもここで生まれた。サミーの家から歩いて五分の所で。だが、二人のあいだの距離は縮まない。男をべつの男から遠ざけるのは、金だけではない。教育や評判、それにいわく言い難い何か。それで生き方がまったく違ってくる。ジョナサンはサミーほどこの街を知り尽くしてはいない。知ることは親近感を抱くことであり、彼は物心ついてからこのかた、この街に距離を置きつづけてきた。彼にとってここは故郷ではない。近しさを感じたこともない。毎日、車で通りを通過しているが、まわりを見ている暇がない。だから、この街は十年前とは様変わりしたと自信をもって言えないし、銃撃戦のあった七十年代、八十年代とはここのこういうところが違うと指さすことができない。彼にとってはほかの都市と同じだ。中規模の海に浸食された工業都市。カーディフ。リバプール。グラスゴー。ハル。じめじめとした地方の中心都市はどこも一緒だ。ジョナサンには、自分がどこにいるとか、どこに属しているという実感がない。それが故郷を持つということなのに。

 ここはベルファスト、ベルファストであってベルファストでない場所。どっちの男も手放そうとしない、それがこの街だ。

イースト・ベルファストの不運な子供たち
落下するしかない少女

 エラは枝の上に裸足で立っている。飛ぼうとするときには靴を履かない。母は彼女にパンツ一枚で飛ばなきゃだめと言う。いまは彼女も大きくなり、肌の下で膨らみかけた出っ張りやら曲線を意識するようになったので、もっとちゃんとしたものを着ている。水着とかレオタードとか。脚と腕が剥き出しなら、と母も認める。肝心なのは余計な重みを付け加えないこと、軽い感触を維持することだ。それがそんなに重要かというとそうではない。エラは誕生日の飾りつけに使う風船を体に結び付け、缶からじかにヘリウムを吸い込んだり、伝書バトみたいに腕を上下にバタバタさせたりするが、それでたいしたちがいが生まれるわけではない。どうせ落ちるのだ。落下する。すさまじいスピードで墜落する。

 エラは木の幹に腕を巻きつける。指先が湿った樹皮で擦れるのを感じる。木の茶色に押し付けた肌の白さが映えて輝くようだ。左の尻には先週の落下でできた青紫のあざが残っていて、両方の膝小僧にはピンクのかさぶたが張りはじめている。先週は塀からだった。きょうは木からだ。脚立から飛んだことも、橋の欄干に登ったこともあった。娘を飛ばせるのに頃合いの高さのものならいくらでもある。エラは下を見て、木を取り囲む湿った緑の草に気付く。ありがたいと思う。芝生ならへこむ。コンクリートはそれほど寛大ではない。上のほうの枝から一羽のムクドリがバタバタと飛び立ち、彼女の顔をかすめていく。楽に飛べる鳥が羨ましい。じりじりと枝の端に向かいながら、用心のために肘を畳んで体につける。翼を広げるような危険は冒さない。翼は皮膚のような薄い膜で覆われているけれど、擦り剥けやすいから、棘は避けなければならない。先端へと向かうにつれ枝が重みでしなるのを感じ、ゆるいカーブに沿って足の指を丸める。剥き出しの爪先の下の枝は小さな生き物でいっぱいだ。ワラジムシ、アリ、顕微鏡でしか見えない微細な獣。それらはエラに引き寄せられる。触れるたびに彼女から漏れだすパワーに引き寄せられる。彼女は皮膚の下でそれらがプチプチと潰れるのを感じる。何時間でもこうしていたかった。何時間でもこうしていられる。でも、両親が望んでいるのはそれではない。それでは彼女の翼が無駄になる。

「いいか?」父が叫ぶ。

「いいよ」エラは応える。

十二フィート下で父が梯子をはずし、よく見ようと後ずさる。母はビデオカメラを取り出した。エラは腕を広げ、風に弱々しく揺れるピンクの帆みたいな翼を広げる。膝を曲げて枝を蹴る。ほんの一瞬、彼女は上昇する。ほんの一瞬だが、その短い瞬間の中で、エラはいつも信じる。それから、重力が彼女の足首を掴んで地面へと引きずりおろす。地面にぶつかって転がる。衝撃を和らげる術は体で覚えた。エキスパートになれるかどうかは、いかに多くの回数を落ちられるかにかかっていて、エラは落ちることなら得意だった。

あらゆる液体の表面に未来を見る少年

コナーは黒い形や悲しみについて曖昧に語る。長く日に晒されたオレンジの皮みたいに、世界は自然と丸くなる。誰もいない部屋で見知らぬ人たちが泣いているのを見る。子供たちは理由もなく傷つく。たくさんの、たくさんの火が明るく燃える。水面を覗くたび、知らない人たちの写真をそこに見る。みんなでごたまぜになってせわしなく動いている。猛然とテレビのチャンネルを飛ばし見したときみたいに。彼は八歳にしてこういうことを語る。比喩が何かも知らないうちから。十歳になるころには、家を出るときは両目を塞ぐようになる。目隠しして見るのは容易ではない。彼はいろんな本を読む。ハリウッド・アーチス図書館から借りる本、ゆえに補強された本を読んで、自分のどこがどう悪いのか正確に的確に言う方法を学ぶ。コナーはあらゆる液体の表面に未来を見る。水たまり。便器。カップの中で薄くなる紅茶。イースト・ベルファストにつきものの雨。シンク。こぼれた飲み物。自分の小便と血。自分のしょっぱい涙。もはや水だけにかぎらない。水分を含む物質ならなんでもいい。閉めた蛇口すら彼には恐怖だ。未来は彼にとって、朝いちばん、歯を磨いているときに遭遇したいものではない。

コナーはいま十四歳だ。めったに家を出ない。飲み物は幼児用の蓋付きカップで飲み、暗くした部屋で目隠しをして風呂に入る、週に二度。晴れて乾燥した日でも、窓の結露が怖いからブラインドをおろしカーテンを閉めている。「ときに雨粒のほうが海より恐ろしい」彼は言う。彼がどういう意味で言っているのか、ほんとうのところは誰にもわかっていない。どうすればわかる? ふつうの俗な目に恵まれた人にわかるわけがない。コナーはときたま、海に連れて行ってと頼む。父が彼を車に乗せてヘレンズ・ベイに連れてゆき、彼と並んで堤防に座る。コナーはなにかに打たれたように震えているが、それでも顔をあげ、耐えきれなくなるまで入り江を見つめつづける。抵抗力をつけようとしてるんだ、と彼は言う。自分は不運ではない、特異な形で祝福されているんだ、と彼は言う。父は彼の言うことを信じない。息子は答えを求めていると考えている。きっとコナーは、すべての終わりを見たいのだろう。

ときおりボートになる少女

カースルレーの端にある裏庭で、ルーシー・アンダーソンはボートになる。今週になって三度目だ。妹のベビープールに足首まで浸かり、待つ。父が生垣を高く作っているので、近所の人に見られることはない。ルーシーは川で船になるほうが好きだ。ビクトリア公園でS字の首の白鳥と一緒に水面を滑走したい。でも、変身願望は突然起こるので、裏庭とどぎつい熱帯魚が描かれたベビープールしか用意できない。プライバシーは必須だ。ゆえに、生垣や家中に引かれたカーテンが必要になる。たまたま通りかかった他人――郵便配達や巡回中の警官――に表側の窓から覗き込まれ、彼女の青ざめた顔がボートの舳先につながり、腕や脚が厚板へと伸びるのを見られたら、すべてがおじゃんだ。

ルーシーは生ぬるい水の中で待つ。重ったるさが抜けてゆくあいだ、じっと待つ。洗濯ロープに掛けられた洗濯物から水が滴るように。いつものように骨が痛みだす。正確に言うと痛いのとはちがう。伸びる。捻じれる。別個の部位が合わさってゆく。むろんふつうではない。彼女はそれを“変身”と呼ぶようになり、終わったあとは磔にされた気分だ。一週間は体を曲げることができない。それでも、栄光の時だ。彼女の骨は空気でできており、肉は羽根で、肺の中の息はもっと軽い物質、ヘリウムとか、あるいは純白の雲でできている。そうなると、ルーシーは鏡に映る醜い少女ではなくなる。ずんぐりした骨太の、ぶっとい腿の少女ではなくなる。水面で軽やかに座る。漂う。滑る。優雅な少女の動きはそんなふうに描写される。たとえばバレリーナ、キャットウォークを歩くファッションモデル。

ルーシーはすでに百四十九回ボートになった。最初の変身のことは思い出せない。そのときたった二歳で、彼女の肉体は毎日のようにあらたな能力を発見していた。ボートになる能力も含め、歩くこと、話すことから最近になってできるようになったことまで、すべての能力を身につけるのに、彼女がどんな苦労をしたか誰も知らない。両親によれば、彼女は終わると何時間も泣きわめくそうだ。「ただの水たまりなのに」両親は言う。彼女のたてる騒音の衝撃的なこと、マッチ棒が裂ける音とゴムが限界まで伸びる音に匹敵する。父はその衝撃からいまだに立ち直れない。ルーシーの体の成長は、いまやボートになることと歩調を合わせている。もうじき十六歳の彼女は、骨がきしみ皮膚が切望する変身の感覚にすっかり慣れてしまい、何回やったか数えることをやめた。それは彼女が抱える呪い。ある種の祝福。それがなければ自分で自分がわからないだろう。どこからはじめればいいのか、わからないだろう。ボートになることに何の意味がある? ルーシーはいまも決めかねている。それは抱えるという行為と何か関係があると彼女は思っている。人を、問題を、大きくて扱いにくいものを。自分を不運と呼ぶつもりはない。自分とは何なのか、言い表す名前があれば素敵だとは思う。どっちつかずの存在を言い表す言葉が。