Antonio Moresco was born in Mantua in 1947. He published his first book, a collection of three short stories, in 1993. He is the author of several novels, short stories, children books, essays, and texts for the theatre. To this day, his career-defining project is the monumental trilogy Giochi dell'eternità (1998-2015). His latest book is the novella Canto degli alberi (2020), which he wrote in isolation during the lockdown due the COVID-19 pandemic. His works have been translated in 14 countries. In English, one can read Distant Light [La lucina, 2013], tr. by Richard Dixon, Archipelago, 2016.
アントニオ・モレスコは1947年マントヴァ生まれ。不遇の時代を経て、1993年に処女作「非合法性」を発表。『小さな灯り』、『誰にも宛てない手紙』、『叫び』、『断裂』ほか、著書多数。『小さな灯り』は自身主演で映画化され、映画祭「EUフィルムデーズ2020」の出品作品として日本でも上映された。長篇三部作『永遠の遊戯』(第一部「端緒」、第二部「カオスの歌」、第三部「非被造物」)は、35 年の月日をかけた自身の代表作。短編小説『愛と鏡の物語』は、初めて日本語に翻訳された作品で、2019年に国書刊行会から刊行された『どこか、安心できる場所で 新しいイタリアの文学』に所収されている。最新作は『木々の声』(Canto degli alberi,2020)。新型コロナウイルス感染拡大を受けて発令された非常事態宣言下のイタリアで、都市封鎖によって余儀なく隔離状態に置かれた中で生まれた。著作は14カ国で翻訳されている。
新型コロナウイルスが世界的な流行の兆しを見せはじめていたころ、アントニオ・モレスコはふだん暮らしているミラノから、生まれ育った町マントヴァへ、プライベートの用事で戻っていた。空いているマンションの一室を友人に借りて、何日かそこで寝泊まりする予定だった。ところが、2020年3月9日、イタリアの全土でロックダウンが敷かれ、モレスコは独り、そのマンションから出られなくなってしまう。勝手のわからない他人の家で、いつまで過ごせばいいのかもわからないなか、彼は毎晩、夜になるとこっそり家から抜け出し、外出禁止の令を破って街を散策する。
こうした現実の出来事からヒントを得て書かれた『樹々の歌声』の語り手は、近くのマンションで女の子の奏でているピアノの音に耳を傾け、長いこと近隣を散策しながら空想上の樹々と対話をし、幼少期の思い出のつまった場所を再訪する。そして、そうしたすべてのことを絡めつつ、パンデミックとその要因、世界における人の居場所、今後人類が立ち向かわなければならないであろう気候変動をめぐる途方もない挑戦について、実存的・政治的・市民的な考察を深めていくのだ。
パンデミックが始まったばかりの数週間に書かれ、7月の初頭に刊行された、日記であり、詩的な語りであり、哲学的・市民的熟考でもある本書『樹々の歌声』は、現代のヨーロッパの文学界を代表する小説家の一人であるアントニオ・モレスコの、いまだ収束を見ない2020年に対する返答といえるだろう。
アントニオ・モレスコ
関口英子 訳
【前略】
ロンバルディア州だけでなく、イタリアの各地、そして世界でも流行曲線は上昇の一途をたどっている。時にいくぶん下がるように思えることもあるものの、すぐにまた上昇する。世界保健機関の事務局長は、このウイルスが我々を壊滅させてしまう可能性もあるとまで言及するに至った。人類のあらゆる経済・政治構造が、我々の「種」としての実際のありように対して、計り知れないほど不釣り合いに膨張していることは以前から明らかだったのだが、我々はその事実から目を背けてきた。それを指摘し、騒ぐ者たちの声に誰も耳を貸さないどころか、嘲笑うばかりだったというのに、今になって、この微細な厄介者の登場によりその事実を眼前に突きつけられている。それでいて、ことここに至った今も、何事もないかのように、全国でも全世界でも従来どおりの経済的狂乱が続けられ、もはや終末期に近い人類の権力を支えているアイデンティティの妄信を拠り所とした、従来どおりの反目が続けられている。自分たちの領土で生じた2度の壊滅的な世界大戦ののちに見た、実験的な大陸としてのひとつのヨーロッパの夢は、旧時代的な自国優先の経済的ナショナリズムと、地球という惑星に、無数の他の「種」とともに、互いに連関しながら棲息する「種」として己の存在を捉える能力の欠如とによって、漂流の危機にさらされている。いずれも、我々にとってこれ以上引きずって歩くことのできない積み荷であり、そこから我々を解き放たなければならないのだ。古き「種」の遺灰から生まれ出る新たな「種」として自らを創生することを可能とするために。この、鏡像のごとき未知のウイルスによって、そうした現実が悲劇的なまでに暴かれたわけだが、問題の根源はそのはるか以前の遠いところ、すなわち、精選された政治、経済、社会、思想的構造や、自滅へと向かう航路を一ミリたりとも変更せずに済ませるために、直視することを避け、認めようとしなかったすべてのものにある。惑星とその大気圏という閉じられた入れ物のなかで繰り広げられる人類の行動によって、あるいは不断でなだらかな成長という愚かな神話によって引き起こされた気温の上昇や氷河の溶解のように。
そのあいだにも、人類に対して真に犯罪的な、極秘の実験室では、将来起こり得る生物戦争で「他者」を破壊しつくすために新たなウイルスが製造されているのだが、同時に「他者」とは我々自身であることが明々白々となっている。ウイルスには境界線など存在せず、それをいじくりまわし創り出した愚か者たちのもとへブーメランのように戻ってくるのだから。
『死せる魂』の著者ゴーゴリもまた、19世紀にマントヴァを訪れたとき、この界隈の小路のどこかに住んでいたらしい。
周囲をよくよく見わたすと、本当に黄色い樹や、蒼や紅の樹、果ては黒い樹まで生えているのが見つかるかもしれない。黒っぽい家々の塀の内側にまで樹々が根を張っているとすれば。薄暗い小路や、灯りの消えた家々、あるいは空の暗がりを背に浮かびあがる樹形を見分けることができたなら、私はその傍へ行って彼らとも言葉を交わすだろう。
私は、これまでに何度も前を通っていたはずなのに、一度も目に映ったことのなかった、運河(リオ)沿いの塀から突き出している黄色の樹に歩み寄って、こう尋ねるだろう。「それにしても、なぜ私には今まで君の姿が見えていなかったのだろうか」
すると、黄色い樹はきっとこんなふうに答える。「さっきも言ったじゃないか。お前がきちんと見てなかったからだ」
「私はきちんと見てたつもりだったのだが」
「人間は、いつだってきちんと見てる気になっている」
「じゃあ訊くけれど、どうすればきちんと見られるんだい?」
「きちんと見るためには、なによりもまず、見るのをやめねばならぬ」
「しかし、見るのをやめたら何も見えないじゃないか!」
「だったら、わしらはどうなんだ? 樹に目があり耳があるとでも言うのか? そんなものがなくとも、すべてを見、すべてを感じ、すべてを知ることができるのさ。少なくとも、見て、感じとり、知る価値があるものはすべて。まあ、そんなものはそれほど多くはないのだが」
「そうは言っても、どうしたら見えているものを見ないでいられるのかい? 見ずにいながら見るなんて、どうしたらできるんだ?」
「特定のものを見ていると、その他のものが見えなくなり、結局はなにも見えないのさ」
運河(リオ)に面した家――その家もやはり、窓が閉ざされ灯りも消えていた――の塀から突き出している塗りこめられた樹の前で、私はしばらく黙り込む。
「子どものころ、私はこの町で暮らしていたけれど、運河(リオ)にはナマズがたくさんいて、まるで死者の毛髪のように流れに身をゆだねる長い藻のあいだでうごめいていたものだよ」その黄色い樹に向かってだしぬけにそう言うのだ。「なのに今ではナマズなんて一匹も棲んでない」
すると、黄色い樹は声を潜めて答えるだろう。「いいや、いるさ。いるとも」
「だったら、なぜ私には見えない?」
「さっきから言ってるだろう。お前はいま、それを見ようとしているからだ。子供のころ見てたままに見ようとしているからさ」
私は、薄暗い家々の2つの壁のあいだを、かすかな寝息を立てて流れる水音にしばし耳を傾けるだろう。そうしてこんなことを考えはじめる。「はたして水も眠るのだろうか。夢を見るのだろうか。水はどんな夢を見るのか。水の夢? 水の夢とはいったいどんな夢なのか。いま夢を見ている人の夢に似ている? それともすでに夢を見た人の夢に? そうした夢はいったいどこへ行きつくのか。水面下で生命のうごめく精液のような水が地表を覆っていたころから、生命が水面へと現われ、生まれ出ずるまでのあらゆる海や川や湖が見るような、より果てしなく広大な夢へと行きつくのだろうか。人類はいまどのような夢を見ているのだろうか。我々の存在自体も見た夢にすぎないのだろうか。より壮大の夢の一部? だとしたら、それはどんな夢なのだろう。あの化学反応を起こす突起のついた王冠(コロナ)をかぶった微細な侵略者は、どんな夢を見ているのだろうか。我々と同じ夢? それとも別の夢? そもそも彼は夢を見ているのだろうか、もしくはその存在自体も見た夢にすぎないのだろうか。だとしたら夢を見たのは誰なのか? 他でもない我々の夢の中? あるいは我々の夢が彼の夢の中なのか? はたまた我々の夢のいずれもが、それを含む別の夢の中にあるものの、その夢もまた我々のささやかな夢がなければ存在し得ないのだろうか」
黄色い樹は、底に水が流れている傾斜した塀に寄りかかり、黙りこくっていることだろう。
「君はじつに黄色いねえ!」私はなんの脈絡もなくそう言うのだ。眠りかけた運河の薄暗がりと世界の薄暗がりで、私の眼前によりくっきりと現われた黄色い樹を見つめながら。
「当然だ! この内側はすべてが黄色だからな」
「なぜすべてが黄色なんだい?」
「この家の住人が至るところを黄色に塗りたくったからだよ。壁も、天井も、床も、ベッドも、テーブルも、椅子も、シャンデリアも、冷蔵庫も、洗濯機も、洗面台も、桶も……。なんと蛇口も、便器までも黄色なのさ!」
「どうしてそんなことを?」
「頭が錯乱しているからだ」
「だとしたら、君も錯乱してるじゃないか!」
「むろん、わしも錯乱している」
私は、驚きのあまり口をつぐむだろう。
それからふたたび彼にこう尋ねるのだ。
「樹も錯乱するのかい?」
「するとも」
「錯乱した樹があるなんて知らなかったよ。思ってもみなかった……」
「ある。あるとも!」黄色い樹は笑いながら答えるだろう。というのも、ちょうどその瞬間、寝ぼけた水をいっぱいに湛えた運河(リオ)に一陣の風が吹き抜けるからだ。
「しかし、他の樹と見分けるにはどうしたらいい?」
「たやすいことさ。黄色いからすぐにわかる」
「それに比べて我々人間は……」
「お前たちも錯乱しているように見えるがね」
「ああ。ただし我々人間のなかには錯乱している者がいて、誰が錯乱していて誰がしていないのかを決めるんだ」
水面を吹き抜ける風に撫でられた黄色い硬質な葉の輝きを全身に帯びて、黄色い樹はまた笑うだろう。
「君はどうしてそんなに黄色いんだい?」私はもう一度、だしぬけに尋ねてみたくなるだろう。答えはすでに聞いたというのに。というのも、時が経てば経つほど、他でもなく人間によって建てられた塀に根を張った樹形が、私の眼前に燐光を湛えてよりくっきりと浮かびあがるだろうから。以前だったら見ることのできなかった、目に映る物や見えると思い込んでいる物の背後にある物――――塀に囲まれた夜のなか、相変わらず揺れながら声を立てずに笑っている幹や枝や葉――が見えるようになった私の目の前に。
「お前をうっとりさせるためさ」黄色い樹は、御伽噺のようにそう答えるだろう。
「君の葉はどうしてそんなに黄色いんだい?」
「お前の頭をくらませるためさ」
「どうしてまともに見ることができないほど黄色いんだい?」
「お前の目を見えなくさせるためさ」
「どうして君の枝はそんなに黄色いんだい?」
「お前のことをしっかり抱きしめるためさ」
「どうして君はだんだん近寄ってくるんだい?」
私はさらに質問を続けるだろう。風を受けた帆のような円蓋形の葉に押されて、その枝がこちらへ近づいてくるように見えるのだから。
「お前にうまく絡みつくためさ!」
「どうして君は、もう私のところまでやってきて、黄色い枝という枝で私に抱きつき、締めつけ、絡みついてくるんだい?」
「お前のことも黄色く染めあげるためだ! そうしてお前も錯乱させるのさ!」
【中略】
このパンデミックが最初に確認されてから103日が経過した。全世界での死者はこれまでに37万人以上、感染者は600万人にのぼる。いずれも公にされている数値にすぎず、実際のところはこれをはるかに上回るにちがいない。イタリアでは確認されただけで3万3000人を超す死者が出ている。現在、イタリア社会は感染拡大措置の《フェーズ2》に入り、ウイルスとの共存の仕方を学ぼうとしつつ、人類が様々な国の実験室で開発中のワクチンによってウイルスを撲滅するか、少なくとも手なずけることのできる日を待っている。どの国も、主導権を握り、最大限の利益を得ることができるよう、他国に先駆けて開発に成功すべく躍起となっている。我が国のみならず、世界中の政治家たちが、唯一得意としている兄弟殺しのゲームをふたたび始めている。すなわち、追い越されないために、あるいはすでにどれほど追い越されているのかわからなくするために、すべてを後ずさりさせるというものだ。良心の呵責などまったくない山師のような冷淡さでもって、この悲劇からさえも政治的な利益を得ようとしているのだ。何が起ころうと決して立ち止まらず、煙の立ち込める瓦礫の上に呆けた勝者として鎮座するために、我が国をも、大陸をも崩壊することを厭わないのだ。世界の他の国々も似たり寄ったりだ。これまで10万人もの死者が出ているアメリカ合衆国では、自らの権益や拠り所とする経済・軍事構造を維持するために、爪を立て、歯を剥き出して闘っている者たちは、民衆の注目や怒りを逸らし、同時に自分たちの責任を軽くするために、贖罪の山羊を見つけた。なぜならば、人はいつだって、いかなることに対しても、人類に降りかかっているより巨大な出来事を覆い隠すことのできる、人の内側にだけ存在する要因を見つけ出さずにはいられず、人類の他にはなにも目に入らないのだから。そして、人類を越えるなにかがあり、人類をひざまずかせ、その愚かさや傲慢を蔑むことのできるものがあると認めるよりも、人類の残虐さによって身を守られていることのほうを好むのだから。こうして、いまや中国が、第三次世界大戦を引き起こして勝利するために、このウイルスをどこかの実験室から漏らした(過失によるものだろうと、あるいは意図的なものだろうと)のではあるまいかと非難されている。そのあいだにも、いったい何人の、大小さまざまな国や、狂気に駆られた人々の集団の長や総督が、いったい何人の現代版“にわかペスト塗り”たちが、生物戦争という、新たなタイプの未来戦争のアイディアを大切に温めていることだろう。生物兵器による武装競争において互いに相手を制し、自分たちの実験室で生み出した、より致死性の高いウイルスを解き放つために。ことによると、恐怖に怯える自国民に投与するためのワクチンを前もって準備し、他国民だけを滅ぼすという幻想を与えるつもりかもしれない。それは、兵舎やミサイルサイロや発射台、地下兵器庫、ミサイル、ステルス機、潜水艦といった、巨大な軍事・核装備を全土に配置する必要のある戦争に比べると、はるかに安上がりな戦争だ。我々はこのような状況に置かれているにもかかわらず、なお崖っぷちで死体を奪い合うジャッカルのように、相変わらず互いに牙を剥き合っているのだ。
通常の生活に戻るべきだという人もなかにはいるだろう。その通常の生活こそが、もはや退路を断たれた地点に我々を連れていこうとしているというのに。そうではない。我々は通常の生活に戻るべきではないのだ。唯一我々がすべきでないのは、何ひとつ変えることなく、何ひとつ新たに考案することなく、そうした通常の生活に戻り、わずかに残された天然資源を手に入れるために、最悪の核戦争や生物戦争に引きずり込まれるまで指をくわえて待つことだ。あるいは、我々狂気にかられた種によって引き起こされた温暖化の過程で融け出している北極や南極の氷床の奥で眠っていた他のウイルスたちが世界に恐ろしい勢いで侵入し、数百万年の時を経て雪辱を果たすのを、手をこまぬいて見ていることだ。
あらゆることを一から考え出さなければならない。それは、容易ではなく、恐ろしい困難を伴う道のりだ。もしかすると不可能に近いかもしれない。というのも、表面的な変化では済まされず、アルゴリズムを修正するだけでも済まされないからだ(我々の種の特性ともいえる抽象的な思考回路のせいで、そのような幻想を抱いている人もいるようだが)。なぜならば、人間界にはあらゆる根本的な変化に必死になって抗い、反対し、これからも反対するだろう、おそろしくラディカルな勢力が現実に存在するからだ。彼らは、己を不滅化し、自分たちの自滅的なゲームを続けられるのならば、自らも属している種全体を崩壊させ、漂流させることを辞さないのだ。
だとしたら、我々人類も自らを二分し、自身の種の一部を切り離し、新たな道を拓かなければならない。新たな旅に出て、新たな種を生み出すのだ。それはひどく難しく、痛みを伴い、悲劇的な行程となるだろうが、それが我々の唯一の可能性なのだ。我々自身の前に、我々の幻影の前にようやく自らの姿をさらし、自分たちの幻影と一体化し、我々自身が我々の幻影となるために。
この数か月、地球上で人類が、ヒトの体内で増殖するこの微細な侵入者によって家の中に閉じ込められているあいだ、おとめ座では、3C 279銀河団の中心にあるブラックホールから、強大なプラズマジェットが放出された。3C 279は、その内部に輝く光の点があり、膨大な量のガスと星が巨大なブラックホールのなかに落ち込むときに極めて明るくなるため、クエーサーのひとつに分類されている天体だ。そのブラックホールは太陽の10億倍の質量があり、降着円盤に近づく星やガスを呑み込み、光速に近いスピードの2度のプラズマジェットで、ガスの一部を吐き出す。
【後略】