ヨーロッパへの窓

★★★★★★

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ポーランドポーランド

『迷子の魂』より

Zgubiona dusza (excerpt)

オルガ・トカルチュク

Olga Tokarczuk
オルガ・トカルチュク(1962年生まれ)はポーランド国内外でもっとも読まれている作家の一人。20 か国語以上に翻訳出版されている。ポーランド西部スレフフ生まれ。ワルシャワ大学で心理学を専攻し、卒業後、セラピストを経て作家となる。『逃亡派』(2007年。邦訳は白水社、2014年)で、ポーランドでもっとも権威ある文学賞ニケ賞受賞、同作の英訳はポーランド作家で初の国際ブッカー賞を受けた。2014年の『ヤクブの書』でふたたびニケ賞受賞。2019年、ポーランドで5人目のノーベル文学賞(2018年度)受賞者となった。ほかの邦訳書に『昼の家、夜の家』(白水社、2010年)、『プラヴィエクとそのほかの時代』(松籟社、2019年)、絵本『迷子の魂』(絵・ヨアンナ・コンセホ、岩波書店、2020年)。

オルガ・トカルチュクの『迷子の魂』は11月5日に岩波書店より刊行されています。ヨアンナ・コンセホの美しい絵と共にお楽しみいただくためにも、書店でぜひお手にとってみてください。
https://www.iwanami.co.jp/book/b539080.html

オルガ・トカルチュク
ヨアンナ・コンセホ 絵
小椋 彩 訳

『迷子の魂』より
 むかし、ものすごくよく働く人がいた。かれはずっと以前に、どこか遠くに、じぶんの魂を置きわすれてきてしまった。魂がなくても、かれはふつうにらしていた。眠ねむって、食べて、働いて、運転したし、テニスだってした。でもときどき、こんな気がした。じぶんは平らな世界にいるみたい。おなじ形のちいさな格子こうしに端はしから端まで区切られた、数学のノートのなめらかなページの上を、あっちこっちに移動しているみたいだと。

 あるとき、いつものように旅行中のこと、ホテルの部屋でかれは夜中に目を覚まし、息ができないような気がした。かれはまどから外を見やった。でも、じぶんがどこにいるのか、よくわからなかった。街はホテルの窓からは、どれもおなじに見えるから。どうやって、なんのためにここへ来たのかも、よくわからなかった。しかも残念なことに、じぶんの名前も忘れてしまった。それはおかしな気分だった。だってこれではどうやって、じぶん自身とやりなおせばいいかわからない。それでかれは、ひたすら黙だまることにした。午前中ずっと、じぶんにひとことも話しかけなかった。そしてそのとき、かれはとてもさびしく思った。まるでじぶんの身体からだのなかに、もはやだれもいないようだった。浴室の鏡の前に立つと、かれの姿すがたはにじんだ線のようだった。あるときじぶんはアンジェイという名の気がしたが、まもなく、ぜったいマリアンであると思いなおした。ぞっとしたかれは、ついにスーツケースの底からパスポートを見つけだし、じぶんの名前がヤンだとわかった。

 あくる日、かれは、かしこい老医師のもとに出かけた。彼女かのじょが言ったのはこういうことだ。

 「わたしたちを上から見たら、忙しく走り回る人で世界はあふれかえっているでしょう。みな汗をかき、疲れきっている。そしてかれらの魂は、いつも背後はいごに置き去りにされて、迷子まいごになっています。魂がじぶんのあるじに追いつけないのです。これが大きな混乱こんらんのもとです。魂が頭を失う一方で、人びとは心を持つのをやめるのですから。魂にはじぶんが主を失ったのがわかるのに、人びとは魂をなくしていることに、往々おうおうにして気がつかない」