オルガ・トカルチュク
ヨアンナ・コンセホ 絵
小椋 彩 訳
『迷子の魂』より
むかし、ものすごくよく働く人がいた。かれはずっと以前に、どこか遠くに、じぶんの魂を置き
忘れてきてしまった。魂がなくても、かれはふつうに
暮らしていた。眠
って、食べて、働いて、運転したし、テニスだってした。でもときどき、こんな気がした。じぶんは平らな世界にいるみたい。おなじ形のちいさな
格子に端
から端まで区切られた、数学のノートのなめらかなページの上を、あっちこっちに移動しているみたいだと。
あるとき、いつものように旅行中のこと、ホテルの部屋でかれは夜中に目を覚まし、息ができないような気がした。かれは
窓から外を見やった。でも、じぶんがどこにいるのか、よくわからなかった。街はホテルの窓からは、どれもおなじに見えるから。どうやって、なんのためにここへ来たのかも、よくわからなかった。しかも残念なことに、じぶんの名前も忘れてしまった。それはおかしな気分だった。だってこれではどうやって、じぶん自身とやりなおせばいいかわからない。それでかれは、ひたすら黙
ることにした。午前中ずっと、じぶんにひとことも話しかけなかった。そしてそのとき、かれはとても
寂しく思った。まるでじぶんの
身体のなかに、もはやだれもいないようだった。浴室の鏡の前に立つと、かれの姿
はにじんだ線のようだった。あるときじぶんはアンジェイという名の気がしたが、まもなく、ぜったいマリアンであると思いなおした。ぞっとしたかれは、ついにスーツケースの底からパスポートを見つけだし、じぶんの名前がヤンだとわかった。
あくる日、かれは、
賢い老医師のもとに出かけた。
彼女が言ったのはこういうことだ。
「わたしたちを上から見たら、忙しく走り回る人で世界はあふれかえっているでしょう。みな汗をかき、疲れきっている。そしてかれらの魂は、いつも
背後に置き去りにされて、
迷子になっています。魂がじぶんの
主に追いつけないのです。これが
大きな混乱のもとです。魂が頭を失う一方で、人びとは心を持つのをやめるのですから。魂にはじぶんが主を失ったのがわかるのに、人びとは魂をなくしていることに、
往々にして気がつかない」