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★★★★★★

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『ドンバス』(2019)より

excerpt from Donbass (2019)

トマーシュ・フォロー

Tomáš Forró

トマーシュ・フォロー
ポーランド在住のスロヴァキアの戦争ジャーナリスト。ラテンアメリカの犯罪組織や2014~2020 年に起きたドンバスでの紛争についての本を執筆。著書『ドンバス』は4 カ国語で出版された。

『ドンバス』(2019)より

トマーシュ・フォロー
井口富美子訳

第30章 汚れた雪に解き放たれて

あの、白い荒野の向こう、忘れられた国の辺縁に、運命が待っている。


 ルハンシクに向かう道がデバルツェボ経由の通常ルートでないことに気づいたのは、ドネツク郊外から数マイルのあたりだった。そのときにタクシーを引き返させておくべきだった。通常ルートの唯一の不都合は、爆撃で通れなくなった橋を迂回して畑や寂れた村を通るぬかるんだ道を行かなければならないことだった。だが取り柄もあった。破壊されたデバルツェボ近郊、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の間にある小さな交差路の検問所では、兵士たちが外に出てこないのだ。
 それでも、橋の壊れ具合とか、スニジネを通る方がずっと道がいいとか、ぼそぼそと運転手が話してくれたので、そのまま進むことにした。要するに、何も心配することはない。

 車はドネツクを出て東部道路を進み、サヴール・モヒラやロシア国境を通り過ぎる。そこは2014年夏に戦争の行方が決まりつつあったいわゆるセクターDで、ここを通ってロシア軍が前線へ送られ、紛争全体の運命を決定づけた場所だった。私たちはドンバスの片隅の、最も開発の遅れた田舎町を走り抜けた。ウクライナ人のエージェント、メクラウドの話では、ハイブリッド戦争の即席部隊、つまりスラヴャンスクやクラマトルシクやその他の町を占領し始めた、金目当てのならず者部隊を送り出した地域だという。
 メクラウドがこのあたりを気が滅入る一帯と呼ぶ理由がようやくわかった。まるで世界の滅亡後を描いた映画のようだ。荒れ果てて崩れかかった団地、今にも倒れそうな校舎や病院、錆びついた空っぽの工場。ところどころ爆発の跡もあったが、大半は戦争前からこんな状態だったに違いない。道行く人のほとんどが老人か酔っ払いか酔っ払った老人だ。ドンバスの二大都市を結ぶ幹線道路は泥まみれで穴だらけ、たまにアスファルトの斑点が現れる。歩道もないに等しい。
 最初の2時間、私はほとんど運転手に話しかけなかった。ここの人たちはどうやって生活しているのかと聞いても、運転手は窓の外を指さすだけ。ここで生活なんてできゃしない。生き延びるのが精一杯さ。運転手はロシア出身だが妻はウクライナ人。ほかに行くあてもない。2人の子供と小さなアパートに住んでいる。
 絶望的なまでに貧しい、破壊された田舎の小都市スニジネを通り過ぎ、ルガンスク人民共和国との国境にさしかかった。町外れには検問所があった。機関銃を持った一人の兵士が、荷物を持って車から降りるよう指示する。その若い兵士は英国の古い払い下げ軍服を着て、さっぱりとひげを剃った猿のような顔に敵意がにじんでいる。私の検査は軍の宿舎で行われる。リュックから身の回り品がゆっくりと取り出され、次に戦闘用ナイフ、防弾チョッキ、軍用ヘルメットが続く。
 すべて彼らのお気に召さない物ばかり。猿男が本部に電話しに行き、別の兵士が外で待てと私に命じる。私は動かない。
 「どうしたんだ?」
 「一人で外へは出ない」
 「なぜだ?」
 「持ち物を盗まれる心配がある」
 兵士はため息をつき、私と一緒に外へ出てドアに鍵をかける。
 数分後、猿男が警備小屋から電話を持って出てくる。しばらく熱心に相手の話を聞きながら私をじっと見つめ続ける。ようやく電話を切ると、肩からカラシニコフを降ろして大声で叫ぶ。「こいつは右派セクターだ!」
 他の兵士たちもマシンガンの安全装置を外しながら建物から飛び出してくる。

 20分が経過する。まだ朝だ。私は汚れた雪の上にひざまずき、両手を頭の後ろに回す。3挺のマシンガンが私に向けられている。だれも私をどうしたらいいのかわからない。猿男はもう一度本部と話すと言って去って行く。兵士たちはほっと一息ついて、私は立ち上がるのを許される。私は彼らに煙草を勧め、自分が何者で、国際協定に守られた中立の立場で、紛争のどちらの側にも属していないと口を酸っぱくして説明し、わかってもらおうとする。
 私が彼らの不倶戴天の敵、右派セクターと何をしていたかって?ここで彼らを相手にやっているのと同じことだ。状況を観察し、前線の両側で兵士や一般人の話を聞き、レポートする。兵士が笑う。おまえが俺たち側のジャーナリストじゃないなら、敵に違いないのさ。私は数日前にインタビューした何人かの有力なドネツクの政治家の名前を挙げる。彼らならはっきりさせてくれる。兵士は煙草を消す。彼らの部隊の誰かが私を迎えに来て、しかも私が真実を話しているなら、問題は解決だ。
 それはどの部隊だ?若い男がそう聞き返したとき、私の背中に戦慄が走った。2013年末、ウクライナ内務省管轄の治安部隊がユーロマイダンデモの弾圧を開始した。ヤヌコヴィッチ大統領の失脚後、新政府はこの部隊を解散させ、隊員たちは市民に対する暴力の罪に問われ、ウクライナで裁判にかけられている。だがここ、占領下のドンバスではうまく立ち回り、彼らは親ロシア派レジスタンスの英雄だ。軍や警察から尊敬され、自治権を与えられている。
 「われわれはベルクトだ」兵士は自慢げに言う。
 タクシー運転手が警衛所から出てきた。携帯電話を取り出すと怯えながら妻に電話をかけ、トラブルに巻き込まれたので遅くなると伝えている。これがラストチャンスだと直感する。私の電話は1時間前にFenixのネットワーク信号を受信できなくなっていた。もし今助けを呼べなければ、すぐにでもベルクトの虐殺者がやってきて地下室に連れて行かれ、ひどい拷問を受けるに違いない。そうなれば私は跡形もなく消えてしまう。
 私は運転手に合図をする。昨日乗車を手配した電話にかけるよう頼む。運転手がようやっと電話を耳に当てたとき、猿男が建物から出てくる。私たちを見て叫ぶ。
 「援軍を呼ぶつもりだ!」
 私は運転手の手から携帯をひったくる。猿男が迫ってくる。
 「助けてくれ!今スニジネの検問所にいる。助けて!」
 猿男は私を殴って電話をもぎ取る。それから私を地面に押しつける。
 「ファシストのブタめ!この場で撃ち殺そう!」
 「カティア、ばかはやめろ。こいつらはもう警官を呼びやがった。すぐ駆けつけて来るだろう。こんな右派セクターのくそばか野郎のせいでムショに入りたいか?」
 猿男はマシンガンで小突きながら私を警備小屋の方へ歩かせ、カティアと呼ばれた黒っぽい髪の若い女が私に銃を向けながら猿男の後に続いた。
 「私の村でお前たちが何をしたか知っているか、このろくでなしが!覚えているか?」女は私が今まで一度も聞いたことがない町の名を言う。
 猿男が女を押しのける。

 屋内で再び私の検査が始まる。私は携帯電話、ノートパソコン、それからカメラを没収される。指紋を採られ、全方向から写真を撮られる。携帯電話をロック解除して写真と連絡先をすべて見せるよう指示される。その中には数年前にワルシャワで撮ったネオナチ行進の写真があり、そのことについて私は記事も書いている。写真にはポーランドの旗が写っているだけで、日付も完全に違っているのに、兵士たちはそれが独立広場(マイダン)で撮影されたと決めつけている。そこから先は、彼らが見つけるものすべて、私が自己弁護のために話すことは何もかも、私に不利な証拠として使われるだろう。彼らは本物の危険分子を捕まえたのだ。
 カティアが紙とペンを持って私の隣に座る。
 「さあ、お前の連絡先の名前と電話番号をぜんぶ書き出せ。こんなめちゃくちゃの字、だれが読める?あたしが全部チェックする。1つでも間違いがあったら、頭に一発お見舞いするからな」
 私が書いている横で、カティアは邪悪な笑みを浮かべている。30歳にはなっていないだろう。化粧はくずれたまま、二日酔いの朝の顔にはうっすら口ひげが生えている。この地域で売られている安物の避妊薬の副作用だ。骨董品のようなマカロフを私に向けている。その指は決して引き金から離れない。
 「このブタ野郎め。わかったか?怖いのか?手が震えているのか?」
 私はほんのわずかの敵意も感じさせないようにしてその目を見つめた。
 「手の震えは寒さのせいですよ」

 ようやく警察が到着し、私はほっとため息をついた。今回はドネツク人民共和国軍に特有の混沌が私に有利に働いたようだ。ベルクトは誰も派遣できず、正規の警察に支援を要請した。私たちは古めかしいジグリで出発する。私は後部座席にいて、銃身を短くしたカラシニコフAKSU-47をしっかり握った二人の寡黙な警官に押しつぶされるように座っている。猿男がオフロード車のラーダ・ニーヴァでついてくる。
 私にノートパソコンを開かせて彼らが何を見つけるのか、よく考えよう。いや、そんなことをしてもしかたがないと思う。彼らにとってはあらゆることが疑いの証拠だから。出発前、彼らは警備小屋で私の財布を調べた。私の従軍記者用国際医療保険証を右派セクターの会員証だと決めつけた。ウクライナ交戦地帯用ジャーナリスト認定証はシークレットサービスのIDカードだと断定した。
 白銀の荒野を走り抜ける。逃亡は自殺行為だ。

 まだ午後の早い時間だ。私は悪臭のする汚い独房に数時間座っている。ついに若い警察官が私を独房から出し、警察署長のところへ連れて行く。老いた大佐と猿男が取調室に座っている。私の荷物が机の上に広げてある。彼らは破壊活動の証拠を他にも見つけていた。サバイバルキットに入れておいたコンパスを好奇心丸出しでいじくり回し、位置を特定する器具だと猿男が説明してようやく諦める。さらに怪しげな小袋も見つけ出す。開封される前に、何が入っているか説明しなければならない。記憶が正しければ150ユーロ入っているはずだ。財布を盗まれたときのための予備の金だ。15年ほど前、初めての旅行の時に入れておいた。
 ほら見みろ!袋には100ユーロと1ドルしかない。49ユーロと1ドルはどうしたんだ、俺たちをだましたな。
 次は赤い医療キットだ。錠剤が少しと古い包帯が入っている。猿男はそれがNATOの戦闘用救急キットだ、テレビで見たことがあると断言する。
 「大佐。失礼ですが、赤い医療キットなんて戦場じゃ目立ってしょうがないですよ」
 大佐は納得したようだが、兵士の方は引き下がらない。背中に貼る鎮痛パッチ(肺を撃たれた時の応急処置用だ)、使用期限が6ヶ月も過ぎた裂傷用消毒薬、(銃創の緊急処置用だ)、それに解熱剤(銃創用麻酔薬だ)を取り出す。大佐は私が危険分子であることに明らかに疑いを抱いているが、一方で恐ろしいベルクトの一員に腰が引けている。
 私はさらに何時間かを独房で過ごし、尋問のため別の警察官に取調室へ連れて行かれる。そこは私がいた独房より汚くて押収物でいっぱいだ。ドネツク滞在の一部始終、会った人たちの名前など詳細を説明しなければならない。その上ドネツクのマンションの、玄関口ドアの色まで描写しなければならない。それから2人で私のノートパソコンを開く。この警察官は検問所の兵士のような被害妄想にはとりつかれていないようだ。写真やファイルをざっと見るだけで満足している。その間に外では何か騒ぎが起こっている。私を取り調べている警察官が部屋を飛び出し、ドアに鍵をかける。
 戻って来た警察官はおびえた様子で私にタバコを勧めてくる。前線の政府軍兵士が外で待っており、私を解放するよう要求しているという。彼やその同僚は小さな町の警察官にすぎず、どんなトラブルも望んでいないし、政治には首を突っ込まないということがわかってきた。彼らの仕事は窃盗や家庭内暴力に対応することだ。ここではあなたに何も悪いことは起こらなかった、そうですよね?私が同意すると警察官はほっとしたように見えるが、それでもなお、警察官が私を最大限に丁重に扱ったという供述書に署名させる。
 私を取り調べた警察官が、猿男がいなくなるまで待つよう、それとなく言ってくる。警察署長は、大言壮語のベルクトが大事な捕虜の引き渡しに納得せず、援軍を呼んで私の救援者を攻撃し、銃撃戦になるのではと懸念しているのだ。
 いいでしょう。私たちはもう30分待つ。しばらくすると電話が鳴り、私たちは出発できる。

 警察署の駐車場に出ると、なるほど、そういうことだったのか。私たちの車から60フィートほど離れたところに何台か車が止まっている。マシンガンが光っている。私はユラを見る。カウカズはカラシニコフの安全装置を外し、アイドリング中のラーダに座っている。怯えた警察官が数人、建物入り口のコンクリート防壁の後ろに隠れ、私の救援者をじろじろ見ている。私は車に飛び乗り、出発する。
 もう夕方だ。今からルハンシクまで行くのは到底無理だ。彼らは私をドネツクへ、前線検問所の方向へ、連れ戻す。車は街中を猛スピードで走り抜ける。道路沿いの検問所で速度を落とす。カウカズは窓越しに軍人身分証明書を守衛に見せると、すぐにアクセルを踏み込んだ。
 二人とも緊張した様子で、まだ終わったわけではないと言う。ユラは、これだけやっても数時間稼いだだけだと言う。今日中に前線を越えて安全な場所に連れて行かなければ、ベルクトが今晩私を連れ戻さないという保証はない。
 「私は何もしてない!」
 「そんなこと、奴らにはどうでもいいんだ」ユラは言い返す。奴らを完全にコントロールできる者はいない。ユラが言うには、ベルクトは私がまだ留置所にいる今朝のうちに省庁に私の身分を問い合わせていた。当局は私の申し立てを裏付け、国際スキャンダルになる前に私を解放するよう彼らに命じた。おそらくベルクトのリーダーは自分たちの好きにすると言って電話を切ったのだろう。
 道中で知ったが、ユラは今朝電話で私の声を聞いて、ぞっとしたという。すぐにカウカズに連絡し、自分たちの前線指揮官に電話で救援と輸送を依頼した。公式ルートを待っている暇はなかった。スニジネに向かいながら、きっと間に合わない、酔っ払った兵士に撃たれたか、地下室かどこかでベルクトに拷問され、今頃は膝頭にドリル穴が開いていると思ったという。
 日が暮れ始めてようやくホルリフカに近い前線の検問所に着く。警備小屋の兵士は首を振る。民間人用通路は日没後には閉鎖され、砲撃が始まる。それまでに向こう側にたどり着けなければ、私は戦いのただ中、緩衝地帯で一晩身動きが取れなくなる。ユラが最後にもう一度自分の軍人身分証明書を見せると、兵士はそれ以上何も言わずに私を通す。ユラと抱き合って別れる。ここからは一人だ。

 私は細く荒れ果てた道をなんとか1マイル歩いた。ロケット弾や銃弾で傷ついた低木が並んでいる。その向こうは地雷原だ。後どれくらいかわからないが、今日中に歩いてたどり着くのはどう見ても無理そうだ。戻ることは許されないが、いわゆるチェックポイント・ゼロで一晩過ごすことはできる。
 チェックポイント・ゼロは最前線のど真ん中にあり、その両側は双方の戦闘陣地だ。互いにわずか数百フィートしか離れていない箇所もある。そこには防衛という概念はない。もし敵が攻撃すると決めたら、チェックポイントにいる人員は真っ先に死ぬ。だが後方の部隊に波状攻撃が来ると警告する時間的余裕はある。そんな兵士たちについて、私はさまざまな話を聞いてきた。この環境で生き延びるには薬と酒しかない。もしチェックポイントのひとつに避難するとしたら、酔っ払った兵士たちに疑われそうなものはすべて捨てなければならない。
 持ち物を捨てようとしたそのとき、遠くの方に光が見えた。バンパーもフロントグリルもない壊れそうなジグリが近づいてくる。スピードを落とし、運転席ドアが開いて老人が頭を突き出す。
 「バイストロ、バイストロ!」
 近づいてくる車のトランクに鞄を投げ入れ、私は後部ドアから車に飛び乗る。
 車には先客が3人いて、全員年配だ。車と同じようにくたびれて見える。だれも何も言わない。私の外見と極度に疲労した様子から、いくつ質問があってもおかしくないのに。私たちが分離独立派のチェックポイント・ゼロに近づくにつれ緊張感が高まる。今現在、ホルリフカは前線の中でも激戦地区の1つで、爆撃と戦闘が絶え間なく続いている。路傍のトーチカは爆発で破損し、激しい機銃掃射で空いた穴がひび割れたセメントブロックで覆われている。兵士たちはこちらに銃を向けたまま通してくれる。
 数秒後、ウクライナ国旗が立てられた同じようなトーチカに到着した。とうとう終わった。助けてもらったせめてものお礼に、おずおずと乗車賃を差し出す。車内は沈黙に包まれ、だれも受け取ろうとしない。恥ずかしくなってお金はしまい込む。
 残った力を振り絞り、最低限のマナーとして顔の筋肉を無理やり動かしてかすかな笑みを浮かべる。
 「どちらから来られたんですか?」
 後部座席で私の隣に座っている老女がこちらを向く。ひどい歯並びで顔は無表情だ。
 「地獄からよ、あなた。私たちは地獄から来たのよ」


第3部リサ

第44章 田舎の生活

分離独立派の中にもウクライナ人がいて、人々が空から落ちてくるのを見ていた。


 ドネツクに長居はしなかった。首都から50マイルほど東にあるスニジネという小さな町で乗り合いバスのマルシュルートカを降りる。スニジネはドンバスでも最も貧しく陰鬱な地域にある。そして3月に私が逮捕された場所でもある。壊れかけの忘れられたその集合住宅は、2014年7月15日の朝、隠れていた大勢の親ロシア派戦士がおそらくはウクライナ空軍によって爆撃されたことを思い出させる。位置情報が間違っていたのだろう、本当の目標から4分の1マイルほど外れていた。その結果、無辜の市民が暮らす2棟の集合住宅が破壊され、11人が死亡した。愛する人を失って嘆き悲しむ人々や、何時間にもわたる救助活動の末にがれきの下から赤ちゃんが生きて救出されるという、胸を締め付けるような光景をこの街は乗り越えた。
 スニジネでタクシーを拾い、さらにへき地へ向かう。車が走っているのはドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の国境を越えるあの道だ。猿男とその凶暴なガールフレンドのいる検問所がある。私は強い恐怖に襲われるが、運転手は突然脇道に入り、それから畑や林を抜ける田舎道に入っていく。

 その村はドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の国境のちょうど真上にある。この地域のほかの村と似たり寄ったりだ。繊維強化コンクリート製の屋根を載せた薄汚れた家々が並び、家の前には黒光りする無煙炭が山積みされている。村の中心部には第二次世界大戦の慰霊碑があり、その隣には空っぽの店舗があって、ぽっちゃりした女店員がいる。ここは静かで、ドンバスのどこよりも緑が多い。
 この地域一帯の人々はスルジクを話す。ウクライナ語とロシア語が混じったきれいな言葉で、ウクライナ全土にそれぞれ地域固有の単語や何十種類ものバリエーションが広がっている。あなたたちは何者かと問われれば、この地方の分離独立派の支配区域に深く入り込んだ地域に暮らす、無視され、砲撃され、犠牲となった市民は疑いなくこう答えるだろう。
 ウクライナ人!戦争も、親ロシア派のプロパガンダも、グバレフも、プーチンも、ウクライナ人がウクライナ人であることを変えられやしない。私が話しかける村人たちは、ためらいなく自分の身元を明かす。そうすることで理解不能の無関係な紛争に自分たちを引きずり込んだ旧国を非難している。戦車や飛行機を恐れ、それらすべての根源だと彼らが信じる政府を憎んでいる。一方で彼らは、依然として自分たちの祖先が残した文化遺産に忠実だ。まさにここ、ドンバスの田園地方では、ウクライナの先住民がスターリンの粛正や強制移送をくぐり抜けて生き残った。彼らはザハルチェンコの支配下でも同じようになんとかやっていくだろう。

 私が滞在する家のミラが、今日70歳の誕生日を迎えた。この日のためにニワトリを二羽、ヌートリアを一匹つぶした。ミラの夫が屋外でローストし、スラブ民族特有の座り方でしゃがんだまま串焼き料理シャシリックを作り、大声で軍隊時代の経験を語っている。肉の焼ける匂いに誘われて、三々五々村人たちが集まってくる。彼らに煙草を勧める外国人をじっと見つめている。
 戦闘開始後に近隣の鉱山主が操業を停止したため、鉱山がじわじわと地下水で満たされてしまい、地元民のほとんどが職を失った。若者たちは出て行き、残った者は自分にできることをしてなんとか生きている。地元の公的機関で働いている人たちは、給与支払が4カ月滞っていたり、給与の20%は払われたが残りはいつになるかわからないと言われたりしている。
 そんなわけで、彼らの口に入る食べ物はほとんどが庭や家畜小屋の産物だ。水道水の出るバスルームがある家はまずないし、トイレはたいてい外にあり、それさえ仮設トイレか地面に掘った穴だ。文句を言う相手はいないが、人々は今よりはるかに良かった時代を覚えている。その良き時代は、武装戦闘員の集団がウクライナ空軍に追われてこの地域に潜伏し始めたときに終わりを告げた。
 2014年夏の2週間、村人たちは熟成したワインと腐りかけのジャガ芋でいっぱいの地下室から銃撃戦とそれに続く空爆を見守った。ウクライナでは挨拶するときに平穏で穏やかな空を願う習慣がある。地下室の2週間が終わってから、この挨拶は住民にとって文字通りの新しい意味、つまり、じめじめした穴からマットレスを外に持ち出して何の心配もなく空を眺められる、という意味を持った。

 私が滞在中の建物の隣に子供の遊び場がある。女の子が一人遊んでいて、すぐそばにその子の母親がいる。ぽっちゃりしたあの女販売員だ。この遊び場を作ったのはオイゲンで、女販売員の夫がオイゲンを警察に訴えた。撃墜されたウクライナ戦闘機のパイロットのパラシュートを隠していたという疑いで。彼らは逮捕のためにオイゲンの自宅に来たりはしなかった。数年後に私が逮捕されたのと同じ検問所でオイゲンを待っていた。オイゲンは数日間、地下室に監禁された。いったい彼らになにをされたのか、オイゲンは口を閉ざす。だが、後頭部には頭蓋骨を割られた傷跡が、治りきらずに蜘蛛の巣状に残っている。やっとのことでオイゲンが病院に運ばれたとき、ひどく殴られた傷だらけの顔を見て家族はだれだかわからなかったという。
 オイゲンを密告した隣人は、3軒隣の家に住んでいる。村のだれもが、原因はウクライナ人の落下傘部隊ではなく、2人が争っていた川沿いの畑だということを知っている。隣人は否定しているが、オイゲンは分離独立派による拷問中に隣人の手書きの供述書を見せられていた。人生とはそういうものだ。
 「殴ったやつを覚えているか?」
 「今も同じ検問所で働いているよ。特に残酷なサディストがいて、このあたりではみんなそいつを恐れている」
 「どんなやつだ?」
 「若くて背が高い、攻撃的な悪党さ。猿みたいな顔の」

 村からそう遠くないところに、特別な立ち入り禁止区域がある。そこには水源と、ドネツクの調査団さえ入れないほどひどい生活環境の精神科施設と、さらに別の区域がある。オイゲンと私は絵のように美しい林の中で彼の車に寄りかかり、煙草を吸いながら遠くに見えるルハンシク人民共和国の国境に近い村々を見ている。
 「オイゲン、どうなるかわかっているのか?こんなことをしたら、私だけじゃなくて君や家族まで連行されるかもしれないんだぞ」
 オイゲンは吸い殻を投げ捨てるとエンジンをかけた。
 「乗れ」

 それはここから2マイル弱離れたところで墜落していた。空に煙が上がったとき、オイゲンは汲み上げ用のライザーパイプを修理している最中だった。見上げると、翼のない大型旅客機が空中を回転しながら落ちていくところだった。機体からは金属片や装備品と一緒に人間が落ちてきた。走る間もなかった。オイゲンはその場から動けなかった。
 やがて飛行機は墜落した。オイゲンが現場に到着する前に、事故のあったエリア全体がドネツク軍によって占領され、封鎖されていた。地元の人たちには何の情報もなく、人づてに聞いた話で想像するほかなかった。ある人は、民間機だけじゃない、おそらく軍用機も飛んでいたという。2機見たという者も、3機だったという者もいた。どこの飛行機だ?おそらくウクライナ軍だろう、こっちを爆撃してきたからな。飛行機の遺体は乗客ではなく死体安置所から運ばれたもので、墜落時にはすでに腐敗が進んでいたと聞いた者もいた。別の村人は、犠牲者全員のパスポートが機内で発見されたが身元確認がしやすいようまとめて金庫に入れられていたらしい、と付け加えた。
 真実を、彼らはまったく知らない。当時ロシアのメディアが故意に流した虚偽情報を、そうとは知らずに広めていただけだ。そういった情報については、後に専門家が反証した。さらに、その数ヶ月間恐怖に襲われていた彼らの心の中で、村への空爆と世界に衝撃を与えた2014年7月17日の事件とが融合した。プロパガンダ、酒場で交わされる話、そして事実と記憶が混じり合い、ますます突拍子のない言説が人々の心に刻み込まれる。無理もない、スニジネの集合住宅への空爆は、アムステルダム発クアラルンプール行き民間機MH17便の墜落事故のわずか2日前だった。搭乗していた298人の最後の瞬間を、オイゲンはその目で見ていた。

 MH17便ボーイング777の墜落現場は、今や草が繁り、牛たちがそれを食んでいる。ドネツク人民共和国でも監視が厳しいそのゾーンに、私たちはやっとのことでたどり着いた。この地域に通じる道路をすべて監視している分離独立派でさえよく知らない、打ち捨てられ舗装もされていない道をたどって。世界各国の専門家は、航空機を破壊したのはロシア軍所有のブーク中・低高度防空ミサイルだと断定した。そしてドネツク政府が唯一できることは、プロパガンダにしがみつき、反証を見つけようとする人達の入国を拒否することだけだ。
 当然、分離独立派部隊は手を尽くしてこの区域をすっかり片付けた。今はロウソクが供えられた慰霊碑があるだけだ。亡くなった子供たちのテディベアも飾られている。兵士が持ち去ってしまう前にかろうじて近隣の村人が隠しておいたものだ。他には何もない。どこにでもあるような畑が広がっている。
 数日後、この辺りからドネツクに戻ろうとタクシーに乗ると、ここに4年前旅客機が墜落しましてね、と運転手が話しかけてきた。ご存じでしたか?ええ。運転手が続ける。事故が起こったとき、彼はちょうどこの辺りで客を降ろしたばかりだった。現場に着いたとき、やはり到着したばかりの地元の市民軍が辺りを封鎖してしまい、彼もその中に閉じ込められた。彼と地元の住人たちは数時間その場にいてすべてを目撃した。世界中の親族がこの恐ろしいニュースを知るやいなや、犠牲者の携帯電話が一斉に鳴り始め、アムステルダムで搭乗した人たちになんとかして連絡を取ろうとしたのだという。
 「電話の音は飛行機の残骸から聞こえたんですか?」
 「わかっちゃいないね」タクシー運転手は悲しげな笑いを浮かべる。「この目で見たんですよ、事故現場から役人が手当たり次第に盗んでいくのをね。電話、タブレット、お金、それにアクセサリーまで。着信音はそいつらのポケットやリュックサックから鳴り響いたんですよ」

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