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『一目でわかるエストニアの歴史』より

excerpt from A Bird’s Eye View of Estonian History

マルト・ラール

Mart Laar
『一目でわかるエストニアの歴史』より

マルト・ラール
北岡元 訳

1. はじめに

まずエストニアで最も著名な歴史家の一人、スレフ・ヴァフトレ(Sulev Vahtre)教授がエストニアの歴史について語った言葉を紹介しよう。


エストニア人の目から見たエストニアの歴史は、バルト海のほとりにある我々の故郷の物語だ。

それは、我々の祖先が日々汗を流しながら築いた土地である。

そして我々全てが「我々の土地だ」と呼ぶことが出来る、最も神聖な権利を有する土地なのだ。

しかし不幸なことに我々は、何度も、何度も、この権利を侵害する人々に遭遇せざるを得なかった。

より大きく、より強力な連中が、我々の土地に憎悪と暴力をもたらし、異国の力と精神を我々に強制し、我々を葬り去ろうとさえした。

我々は武器を取り、思慮を巡らしつつ、自らを防衛した。我々は没落し、再び勃興した。

我々は生き延びた。

そして生き延びるだけなく、何が起ころうと、誰がやって来ようと、教養と文化に溢れる人間になり、世界の他の人々の中に自分の居場所を確保している。

我々の故郷に対する想いは、絶えず、征服者の軍隊に勝るものであったのだ。

/…/ 抜粋

2.エストニア共和国の時代 その 2(1940 年のソ連占領から 1991 年の独立回復まで)
(1) ソ連占領の最初の 1 年間

ソ連占領の最初の 1 年間は、エストニアにとってつらいものとなった。

それまでのライフスタイルは拭い去られて、血なまぐさいテロが始まった。

エストニア人に加えられた特に酷い仕打ちは、いわゆる「6 月の強制移住」であろう。 1941 年 6 月 14 日に、1 万人以上のエストニア人が逮捕され、シベリア送りとなったが、

その大半は女性と幼い子供であった。

合計すると、最初の 1 年間でほぼ 6 万人の居住者を失ったことになる。

1940 年から 1941 年にかけてエストニア人を襲ったショックはあまりに酷く、過去 700年にもわたって続いたドイツ人への反感が忘れ去られてしまうほどであった。

(2) ドイツの攻撃でソ連は撤退

だからドイツがソ連への攻撃を開始したというニュースに、エストニア人は安堵した。強制移住が始まって以来、森の中に集結して身を潜めていた「森の兄弟」、つまりパルチ

ザンの一党は、その活動を開始し、ドイツ軍の到着を待たずして、エストニアの広範な領土を解放した。

去り際に、赤軍の兵士とコミュニストによって組織された大隊は、エストニア全土で破壊を尽くし、市民を虐殺した。

1941 年の 7 月初旬にタルトゥで蜂起があり、この結果、同市の南部はパルチザンが掌握。

彼らの庇護のもとに、テロを逃れていた独立エストニアの政治家がタルトゥに結集した。エストニア最後の合法的な首相となったユリ・ウルオツ(Jüri Uluots)のリーダーシ

ップにより、ドイツ政府に宛てた覚書が起草された。

その内容は、エストニアの合法的政府は絶えることなく継続していたのであり、よってそれは回復されるべきである、というものであった。

しかしエストニアの独立回復は、ナチ・ドイツの計画とは相容れぬものであった。 1941 年 8 月末までに、エストニアのパルチザンの支援を受けたドイツ軍は、赤軍をエス

トニア本土から駆逐した。

その後数か月の間、エストニアの島嶼部では、戦闘が継続した。

結局エストニアの統治は、エストニアの合法的な政府ではなく、ドイツ人によって組織

されたエストニア自治政府に委ねられることとなった。

エストニアには典型的な占領下の体制が敷かれて、焚書、さらにはエストニアに留まっていたユダヤ人の虐殺が行われた。

エストニア人にとっては「占領者が、別の占領者に置き換わったに過ぎない」ということが明らかになった。

ソ連を相手に戦ったレジスタンスの集団は再び地下に潜行し、西側諸国志向のレジスタンス運動を開始。

その後何年も「エストニア共和国国家委員会」の名のもとに結束することになる。

ユリ・ウルオツとの合意により、この「国家委員会」は 1944 年春から、エストニアの全政党を結集し「エストニア仮設議会(pseudo-Parliament)」の運営を開始した。

1944 年、赤軍はレニングラード包囲網を突破し、エストニアとの国境に迫った。

この赤軍の攻勢を食い止めるために、ドイツの最高司令部は、エストニア人の動員による軍増強の必要に迫られた。

それまでドイツによる動員に否定的であったエストニア人は、この期に及んで動員要請に応じることを決定する。

ユリ・ウルオツの呼びかけに応じて数万のエストニア人がドイツ軍に参加し、防御戦を戦い赤軍のエストニア侵攻を阻止した。

ウルオツの真意は「エストニア軍」の体裁を有する自らの軍の創設であり、好機が到来すれば、それでエストニアの独立を回復しよう、というものであった。

フィンランドが戦線から離脱すると、ヒットラーはドイツ軍のエストニアからの退却を決定した。

エストニア人は、これを独立回復の好機と捉えた。

1944 年 9 月 18 日にタリンで、ウルオツはオット・ティーフ(Otto Tief)を首班とする政府を任命。

エストニア兵とドイツ人との間での武力衝突となり、青・黒・白のエストニアの国旗が、タリンにある塔「のっぼのヘルマン(Pikk Hermann)」の頂上に掲げられた。

しかし、残念ながらエストニア政府には、タリンに迫る赤軍を阻止するだけの力がなかった。

(3)ソ連の再占領

1944 年 9 月 22 日、赤軍はタリンを占領し、青・黒・白の旗を赤色旗と交換した。

エストニア政府は国外への逃避を試みたが、大半はソ連の治安機関によって逮捕された。しかし独立を達成しようとしたこの試みは、数年後に、国外に逃避したエストニア人が

自由な世界でエストニアの自由のための戦いを継続するための基礎ともなった。新たなソ連占領は、エストニアに新たな苦難をもたらした。

再び流血を伴うテロが始まり、数万のエストニア人が犠牲になった。 1949 年 3 月に、2 万人以上のエストニア人がシベリア送りとなった。

その目的は、レジスタンスを一掃し、集団農場での労働を強制するためである。

エストニア人のおよそ三分の一がこれらのソ連の弾圧の餌食とされて、エストニアはソ連占領の結果、それ以前の人口の 17%を失った。

シベリア送りとなったエストニア人の代わりに送り込まれたのが、ソ連の他の地域からの入植者であった。

ソ連はこの政策で、エストニアにおけるエストニア人をマイノリティの地位に貶めようと画策したのである。

(4)レジスタンスを諦めなかったエストニア

スターリンの死後、ソ連の状況は若干改善し、経済発展が始まったが、エストニア占領という本質は変わらなかった。

入植とロシア化は継続され、特に 1970 年代の後半になると加速された。

エストニアの人口にエストニア人が占める割合は、急速に減少の一途を辿った。

戦争終結後に 90%だった割合は、1980 年代末には 60%を僅かに上回る程度に落ち込んでいた。

エストニアでの生活水準は、ほとんどのソ連の他の地域よりも高かったが、先進国との格差は広がる一方であった。

この点は、フィンランドとの比較で明確になる。

実は第二次世界大戦前には、エストニアの生活水準は、フィンランドのそれとほぼ同等だったのだ。

弾圧にも拘らず、エストニア人はソ連の権力へのレジスタンスを諦めなかった。

戦後の最初の 10 年間は、武力を伴ったレジスタンスや、「森の兄弟」による活動といっ

た形態であったが、これらの活動をソ連が抑圧出来たのは、ようやく 1950 年代の半ばになってからのことだ。

そして最後の「森の兄弟」、アウグスト・サッベ(August Sabbe)が逮捕されたのは、な

んと 1978 年である。

(5)レジスタンスのバトンは「森の兄弟」から学生へ

「森の兄弟」の活動が封殺された後、学生の秘密組織がレジスタンス活動のバトンを引き継いだ。

そして 1960 年代の終わりには、反体制運動が始まった。

1972 年には幾つかのレジスタンス組織が連名で国際連合に覚書を送付し、ソ連のエストニア占領をやめさせるべき、と要求した。

さらに 1979 年になると、バルト諸国の反体制派は、いわゆる「バルト声明(Baltic Appeal)」という形で「モロトフ・リッベントロップ協定」が破棄されるべき、と要求した。

ロシア化が強化されるとともに、反対運動は高まる一方であった。

1980 年になるとタリンで散発的に若者の反乱が起こったが、それらはソ連の官憲によって残虐な形で鎮圧された。

これに対抗して、エストニアの著名な文化人が、「40 人の書簡」の名で知られることになる書簡を作成。

そのコピーは流布されて、多くの人々の関心を掻き立てることになった。

ソ連当局は、レジスタンス活動に携わった多くの人々を逮捕したが、ついに活動を絶滅させるには至らなかった。

実際のレジスタンス活動に身を投じた人の数はそれほど多くなかったが、彼らは広範な消極的レジスタンス活動によって支えられた。

その原動力になったのが、エストニア独自の文化、言語、記憶、そして気質の保護である。

特に文化は、エストニア人にとって特別な武器となった。

それがエストニア人を奮い立たせて、エストニア人の生活の全てを統制しようとする共産主義者の全体主義的システムに立ち向かわせたのである。

これらの動きの全てが、1980 年代後半のレジスタンス活動に繋がって行くことになった。

(6)崩壊の淵に追い込まれたソ連と高まるデモ

そして 1980 年代後半こそは、「冷戦」の敗北とそれに伴う革新的な動きが、ソ連をますます崩壊の淵に追い込んで行った時期である。

エストニア人は素早く、このソ連の弱体化を好機到来と捉えた。

最初は注意深く、しかしやがてますます大胆に、ソ連の限界を探り始めたのだ。

1986 年に「エストニア伝統活動(Estonian Heritage Movement)」が設立されたが、その目的は、エストニアという国民の歴史的な記憶の回復であった。

ソ連当局は、この活動を弾圧しようとしたが、それを全面的に禁止することは出来なかった。

エストニアで新たなリン採掘の鉱山が開設されることになったが、これに対する抗議活動が 1987 年春に起こった。

これを「リン鉱石戦争(phosphorite war)」と言うのだが、それまでの抗議活動に勝るエストニア人が参加した。

エストニア人の圧力にさらされて、ソ連当局は譲歩を余儀なくされ、新鉱山の開設はお蔵入りとなった。

この勝利はエストニア人を刺激した。


(7)政治闘争に転化したエストニアのデモ

こうしてそれまでの抗議活動は、徐々にあからさまな形での政治闘争に転化して行った。 1987 年 8 月 23 日、釈放された政治犯たちがバルト三国の全ての首都でデモを組織し、

「モロトフ・リッベントロップ協定」の破棄を要求した。

このデモへの参加者は予想を上回って多勢となったが、それこそが、ソ連当局のテロによる弾圧が弱体化しつつあることを示していた。

「モロトフ・リッベントロップ協定エストニア究明団(Molotov-Ribbentrop Pact Estonian Disclosure Group (MRP-AEG))」がエストニアに設立され、1988 年初頭に、さらに幾つかの新たなデモを行った。

ソ連当局の武力や威嚇によるデモ阻止の試みは、水泡に帰した。

ますます広範なエストニア人が、現状に反対する抗議活動を行うようになった。

1988 年 4 月初頭には「創造的ユニオン総会(Plenum of Creative Unions)」が開催されてロシア化政策の破棄と、エストニア人へのより広範な自治の付与を要求した。

そして 1987 年 4 月には、エドガル・サビサール(Edgar Savisaar)が「自立するエストニア(Self-Managing Estonia、Isemajandav Eesti。IME)」と呼ばれる経済改革を創始して名声を博した。

サビサールはペレストロイカ支援を目的として、「人民戦線( Popular Front,

Rahvarinne)」の組織を提唱した。

これは多くの賛同者を得て、エストニア全土に「人民戦線」を支援するグループが立ち上がった。

これらの結果として、エストニア人の活動は、もはや制御出来ないほどになった。 1988 年 4 月、タルトゥで開催された「伝統保護の日(Heritage Protection Days)」に、

エストニア人はその国家の色、つまり青・黒・白を使用する権利を回復。三色旗が、燎原の火の如くエストニア全土に翻った。

それはエストニア人が、長い眠りから覚醒したようであった。


(8)「歌う革命」の始まり

同年6 月初頭には、数万人の若者がタリンで開催されたソング・フェスティバルに集い、三色旗のもとで歌った。

若き作曲家、アロ・マッティーセン(Alo Mattiisen)の手になる愛国的な歌が、特に熱狂をかき立てた。

歌う革命(タリン歌の広場)
歌う革命(タリン歌の広場)

「歌う革命」がエストニアで始まった。全土で大衆デモが行われた。

「伝統保護協会」のイニシャティブで、かつて外国勢によって破壊された記念碑が、それにまつわる人々の歴史的な記憶とともに、回復された。

予想を上回るエストニア人からの圧力にさらされたモスクワは、逃げの一手となった。まず不人気の地方指導者の首をすげ替え、新たな指導者は「人民戦線」のほとんどの要

求を受け入れた。

しかし、もはやこの程度では、エストニア人を黙らせることは出来なくなっていた。

当初の自治を、そしてもっと自由を、といった要求は、ほどなく独立の回復に取って代わられたのである。

このエストニア社会の過激化で主導的な役割を果たしたのが、市民が構成する委員会の活動である。

それは 1989 年に始まり、「エストニア共和国」の市民を法的に登録し、彼らのために「エストニア議会」を招集したのである。

この議会が、エストニアの未来に関する決定を行うことになった。

エストニアに居住する非エストニア人は、エストニアの市民として登録するか否かを決めるために 1 年間の猶予を与えられた。

同時に「エストニアのウィルス(Estonian virus)」がソ連全土に拡散した。

そのための主導的役割を果たしたのが、エストニアから「全ソ連仮設議会(USSR all- Union pseudo-Parliament)」のために選出された代議員である。

1989 年 8 月 23 日、「バルトの鎖(Baltic Chain, Balti kett)」がバルト三国を貫いて、人々が手を繋ぎあって形成され、バルトの人々が自らの自由のために立ち上がる決意であることを、全世界に向けて示すことになった。

「バルトの鎖(Balti kett)」1989 年 8 月 23 日
「バルトの鎖(Balti kett)」1989 年 8 月 23 日

1990 年に行われた地方選挙で、独立を支持する勢力が勝利。まずリトアニアが先陣を切って独立を宣言。

続いてラトビアとエストニアが、少し異なる形でそれにならった。

疲弊したソ連当局はあれこれと異なった手段を弄し、勢い付いたバルトの共和国を再び統制化に置こうとしたが徒労に終わった。

1991 年 1 月、ソ連の特殊部隊がリトアニアとラトビアに軍事介入を行った。

しかしエストニアへの介入は、ロシア大統領のボリス・エリツィンの采配で中止され、

世界中で起こった抗議行動は、一時鎮静化した。

しかし、それでもソ連当局は、バルト三国の独立を認めるのをためらっていた。

独立の承認は、ようやく 1991 年 8 月になって軍事クーデターが失敗し、ソ連が崩壊する時を待たなければならなかった。

(完)

翻訳者の北岡元大使と著者のマルト・ラール元首相 2021 年タリンにて
翻訳者の北岡元大使と著者のマルト・ラール元首相 2021 年タリンにて

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