ヨーロッパへの窓

★★★★★★

Windows to Europe

チェコ チェコ

『バチャとともにジャングルへ』より

excerpt from Czech shoemakers in the Brazilian jungle

マルケータ・ピラートヴァー

Markéta Pilátová

マルケータ・ピラートヴァー
作家、翻訳者、ジャーナリストとして活動するマルケータ・ピラートヴァー (1973 年生まれ) は、オロモウツのパラツキー大学芸術学部でローマ研究と歴史を専攻し、6 年間専門アシスタントとしても勤務。 その後、スペインのグラナダでスラブ学科のチェコ語講師として 2 年間勤務したほか、アルゼンチンとブラジルに長期滞在し、チェコ系の子供たちに指導を行った。現在はジャーナリストとして活動し、以前在籍していた週刊誌「Respekt」を中心に寄稿している。現在はチェコ在住で、これまでに多くの長編・短編小説、詩、児童文学を執筆している。代表作は、Žluté oči vedou domů(2007)、Tsunami blues (2014)、S Baťou v džungli (2017) など。最新作は小説Senzibil (2020、Torst社)。ピラートヴァーは現在チェコ人作家の中でも、多くの言語に翻訳されていることで注目を集めている。

『バチャとともにジャングルへ』より

マルケータ・ピラートヴァー
阿部賢一訳

ドロレス
(ヤン・アントニーン・バチャの孫娘、ルドミラ・バチョヴァーとリュボドラグ・アラムバシッチの娘)

ペタペタ
小麦粉二四〇グラム
バター一四〇グラム
砂糖一四〇グラム
皮むきアーモンド七個
卵二個
レモン一個分の汁と皮
生地を薄く丸め、成型して切り抜き、焼く。
焼けたものを二つ取って、マーマレードをあいだに塗る。

 指にまとわりついてたまらない。バタトゥーバのクリスマスの暑さのもとでは、生地とマーマレードはべたついてしょうがなかった。輪のクッキーを真ん中に置いて、ジャボチカバやマンゴのマーマレードを塗る。正しい名前は別にあるらしい。でも「リンツの輪っか」と聞いても、ぴんとこない、アスファルトみたいに指にくっつくから、ペタペタという名前。だいぶ後にズリーンで食べたけれども、別物だった。おじいさんとおばあさんが帰郷できなかった場所に、わたしが帰るのを想像しても何の感慨がなかったのと同じ。わたしはただ自由を感じたかった、その代わりに感じたのは繊細さ。あまりにも大きな建物、陰鬱な空に対する繊細さ。ブラジルの空はいつも高いところにあって、透き通っていて、果てしなく広がり、光を放ち、行くべき道を示してくれる。でも、ここの空は急に近くになって、わたしの上に降りかかってくる。ここプラハでは、暗く、血なまぐさい歴史の何もかもが圧縮され、わたしに伸しかかってくる。石橋や彫像のバロック的なパトス、ありえないぐらい手の込んだ細部、車道や歩道で贅沢に使われている舗石のキューブ……こういったものが、繊細さと驚きで、それから、チェコ語でもポルトガル語でもいい表現が見つからない何か暗いもので、わたしを満たし、何はともあれ、こういったすべてのものが自分の一部だった。コートにくるまり、窮屈さを感じているこのわたしは、ありとあらゆるものと関係があることを理解した。重荷、郷愁、痛みが、わたしに伸しかかってきた。あまりにも美しく、あまりにも古風な街の顔に刻まれた石の傷跡を、わたしは目にする。グレーの色からはいろいろなものが次々と生まれるが、それは、何かに出くわしても、どうにか生き延びようとする、私には理解しがたい意志のようなもの。どうやって言葉を忘れずにいたんですか。どうやって皆さんはここに居続けているんですか? それは、感嘆の念であると同時にあの傷、陰鬱でひびの入ったイメージがもたらす恐怖。そのイメージは、ヤン・アントニーンとマーヤが子供を連れて脱出しなければならなかった国の顔に投げつけられた軽いチュールの向こう側から、ヴェールの向こう側から浮かび上がったもの。ブラジルにいれば、わたしは誰にでも何にでもなることができ、無限の国の自由を、傷を負わずに生きていける国の自由を謳歌できる。でも、わたしは、おじいさんの血を引いたのか、病的なところがある。

 わたしがあの町を初めて訪問したのは、一九八二年。良家の出で何も困っていないブラジルの若い弁護士グループがローマの学会に参加するために、ヨーロッパへの旅に出かけたのだ。わたしもその一人で、長年にわたって家で語られてきたことをどうにか目にしたいと思っていた。生々しい色彩で詩にしたり、描写されていたので、ローマのどこにどういうホテルがあるか手に取るようにわかっていたし、中国風の柄のある大きなブリキのケースに母さんとおばさんたちが仕舞っていた絵葉書でパリのことも知っていた。おばと母が留学したロンドンの通りの名前もわかっていた。まずは、法律の学会のため、わたしたちはローマを目指した。休憩時のカフェで誰が何語を話せるかという話題になり、わたしはチェコ語とセルビア語もできると話した。「プラハだったら、ここからすぐじゃない、プラハも覗いてみない、どう?」「やめとく、逮捕されるから」とわたしは返答した。皆、目を丸くして、わたしを見た。すると、戦争が終わってからだいぶ経つし、しかもあなたはブラジル国籍でしょと言って、わたしの懸念を打ち消した。しまいにはどこで航空券を買うかということになったが、母さんがよく言っていたけれど、わたしのなかには小人がいた。チェコスロヴァキアに入国できないことを、どうやって説明したらいいかわからなかった。家族同様、わたしもブラックリストに載っているって。どっちみち、ビザも出してもらえない、わたしはそう思った。ブラジルの法曹界の議長といっしょに、とりあえず在ローマ・チェコスロヴァキア領事館に行ってみたら、ビザは発行された。変な顔をされたが、不快感を示すというよりは驚いている様子で、長時間待たされたけれども、わたしのパスポートに判子が捺された。恐怖はより大きくなった。わたしのなかの小人は相変わらず身を縮めていた。わたしは、何かの罠か、秘密警察のたくらみなのではと思った。国境を越えたら、わたしは連行されて命を奪われ、遺体はどぶに捨てられる。でも、こういったことを仲間には伝えようとは思わなかった、こんな被害妄想を抱いて恐れていると思われたくなかったからだ。そのうえ、わたしの家族の出来事をすべて皆に語ると、心の中では指で額を叩き、でっちあげているんじゃないかという表情を浮かべた。靴の一大メーカーの経営者の孫娘? 世界的な靴の帝国? もちろん! じゃあ、あなたの家族が建てた町を案内して! すると、皆はわざとこういうことを言っている、わたしを試しているだけなんじゃないかという感覚になった。むしろ、全部ぶちまけたほうがいんじゃないかって! でも、朝、空港に向かう時分になると、わたしは落ち着き払っていた。恐怖は消え、ズリーンもこの目で見てみようという気持ちになった。そこに行けなかったとしても、せめてプラハだけでも見ようと。

 空港では、係員がわたしのパスポートをしばらく眺めて、次から次へと手渡すと、怪訝そうにわたしを見つめた。でも、じつは、バチャ=アラムバシッチという姓に首をかしげていただけだった。女性の姓の語尾にあるはずの「‐オヴァー」がなく、バルカン風の名前に、組み合わされないはずの男性形が使われている。でも、そのことをわたしに詰問する者はいなかった。係員は誰かに電話したり、首をかしげるのを繰り返していたが、最後にはわたしにパスポートを戻し、空港のホールに出ることができた。皆、わたしのことを待ってくれていて、皆、共産主義の国がどういうところか興味津々だった。禁じられた冒険に興奮している仲間の様子を見るのは、あまり心地よくはなかった。わたしの気持ちは「興味深い」という性質のものではなかったからだ。恐怖は消えたものの、わたしは金槌で頭を殴られたようだった。ホテルは小地区に位置し、わたしたちの団長の知り合いが手配してくれていた。手狭な部屋かと思っていたが、外国人だらけのガラス張りの巨大なキューブだった。玄関ホールは駅のような人のにぎわいで、メッセンジャーボーイは遠慮なくチップを求めていた。お城のすぐ近くだったので、わたしたちはスーツケースの荷解きをするとすぐに町に出かけた。何かあるたびに訳してと頼まれるので、わたしは通訳をした。今でも、空港発のタクシーで初めて通訳した時の一文を覚えている――タクシー運転手はわたしのことを怪訝そうに眺め、出身地を訊ねた。「ブラジルです」と答えると、「まさか、スローヴァツコ方言話しているじゃない」との返事。「ええ、わたしの家族はモラヴィア出身、ズリーンの出なんです」。運転手はよく呑み込めないという様子で首をかしげた。はじめのうち、プラハの言葉はよくわからず、アクセントに悩まされた。パーティというパーティのスターで、小話の巧みな語り手であったわたしは、妙なことに口をつぐんでしまった。じつに長い時間を経て、故郷に舞い戻った気分になったけれども、まだそこは故郷ではなかった。プラハ城に着いて、第一中庭、第二中庭を通り抜け、大聖堂の入口の前で立ち止まり、建てたのは誰か、何年だったか、友人に説明を始めた。自分が知っている情報をガイドのようにすべて吐き出した。すると、涙が流れはじめた。皆、わたしをじっと見ていたが、わたしは大声を張り上げ、止められなかった。すこし落ち着こうと教会のベンチに腰掛けることにし、その間、仲間は大聖堂の見学に出かけた。わたしは一時間ほどそこに座っていた。仲間はわたしを一人にして、黄金の小路に行ったり、小地区を見たり、カフェや土産物店を冷やかしたりしていたけれど、その間、わたしは坐ったまま泣いていた。たまにため息をついて、行き交う観光客を眺めたりもしたが、涙は止まらなかった。押し寄せる波、地震、自然災害のようだった。こんなことは、これまでに一度もなかった。皆はわたしのところに戻って来て、ホテルまで連れていってくれた。ベッドに横たわっても、わたしは静かに涙を流しつづけた。夕食には、皆でレストラン「黄金の鵞鳥」を訪れた。食事は訳がわからないほど安く、壁の木彫り、ビールの匂い、無愛想な給仕たちにとても惹かれた。ありとあらゆるものが昔からよく知っているように感じたせいなのか、その夜も一晩中泣き続けた。可哀そうな弁護士仲間たちはわたしとどう接したらいいかわからず、事情を理解できずにいた。でも、わたし自身もどうしたらいいか分からなかったのだ。翌朝、波は収まった。起床して、今日はズリーンに行くと決心した。仲間も、家族がつくったとわたしが主張する町を見たいという。プラハからズリーンまで、タクシーを一日借り上げることにした。でも、運転手には自分が何者か伝えなければならない。ヤン・アントニーン・バチャの孫娘を乗せたら、問題に巻き込まれるんじゃないかと心配したからだ。「ズリーンまでお願いできますか?」「ああ、あなたね?!」それは、空港から乗ったタクシーの運転手だったが、このホテルはこの人によく依頼しているのだろう。「いやいや、お嬢さん、あなたの仰るズリーンはもうだいぶ前になくなっているの、知らないの?」「え!」わたしは信じられない想いだった。「いやね、町はあるんだよ、でも、今はゴットヴァルドフという名前になっている!」そう云うとにやりとした。わたしは以前、ズリーンのゲルベツォヴァーおばさんから手紙を受け取った時、「イェンダ、今度からゴットヴァルドフって書かないとだめだ」と祖父が言い、マーヤばあさんが気分を害してスプーンでテーブルを叩いていたのを思い出した。「あ、そう、そう。――わたし、じつは、ヤン・アントニーン・バチャの孫娘なんです。それでも行ってもらえます?」念のために確認してみた。「ほんと?! まさかのまさかだね!」大声を張り上げると、運転手は言った。「乗って、乗って、ズリーンへ行くよ、お嬢さん、ゴットヴァルドフなら行かないけど、ズリーンなら喜んで行くよ、それは別だ」とにやりとし、何も問題はないよと言い添えた。

 そして、わたしたちは出発した。神話的な町、幼少期に耳にした伝説や挿話の中心を目指して。公正さという黄金の聖杯を探して。でも、それはまだ先のことだった。それは、その後のそれほど冒険的でない訪問を何度かしてからのことだった。プラハは町中が埃で覆われ、いたるところで剥がれたり、ひびが入っていたが、ズリーンも同じだった。すこしペンキを塗ってもいいんじゃないか、とくにおじいさんの工場は、と思った。あと街路を二本ほど行けば工場というところで下車し、わたしは歩いて向かった。ちょうど昼下がりで、工場から出てくる人が見えた。その時、プラハの人たちとは異なって、ここの人たちは陽気であるのに気づいた。男の人も冗談を言って、女性もバッグやふさふさした髪をなでながらいっしょにふざけている。バチャの精神が残っているのはここだけかも、とわたしは思い、母さんやおばさんに教えたら喜ぶだろうと思った。でも、「裏切者ヤン・アントニーン・バチャには極刑を」とメインゲートに記された一九四七年の写真の精神も残っていた。おじいさんの精神が今でもこの工場に残っているとしたら、それは、どういうものなのだろう?

 そのあと、森林墓地を訪問し、トマーシュおじさん、おばさんたちの墓に花を手向けることにした。どうしてだかわからないけれども、すると、トマーシュおじさんが夢に描いた特別な場所について語る言葉が頭のなかで響いた。それは、トマーシュおじさんではなく、祖父の声だった。「わたしたちは、訪れては嘆く場所として墓地を見ることに慣れてしまった。でも、墓地は、この世のありとあらゆるもの同様、生のためにあるべきだ。だから、生者がくつろいだり、喜びながら、ここを訪れるようにしたほうがいい。例えば、そこで遊んだり、おやつを食べたり、木々のさざめきの中、平穏かつ静粛に眠っている人のことを思い出すんだ」。それはまさに、今のわたしが望んでいたことで、この墓地でくつろいでおやつを食べながら、今自分がしていることについて思いをめぐらしたかった。でも、運転手は墓地がどこか見当もつかなかった。スカーフとエプロン姿のおばあさんが通りを歩いていたので、声をかけると、ここから遠くはないから、いっしょに行ってあげる、と言ってくれた。タクシーに乗ってもらい、出発した。話し方はわたしとそっくりで、あらね、とか同じ言葉を使っていた。墓地に何の用と訊ねられたので答えると、わたしに目配せして、なら、行くところがあるわよ、と言った。運転手を町の外れまで誘導すると、そこにはゴットヴァルドフとペンキで描かれた看板があったが、誰かが線を引いて、手書きで「ズリーン‐バチャ」と書いてあった。わたしは写真を撮りたいと思ったけれど、ブラジルに戻らないといけないと考えなおした。プラハへの帰り道、巨大なスローガンが見え、赤い字で「永遠にソ連とともに」とあったが、誰かが黒のスプレーでそのうえに「くそ」と書いていた。わたしは思わず笑い出し、おもらししそうになるほどだった。わたしがそのことを訳すと、タクシー中が笑い声で揺れた。運転手もにやりとし、満足した様子でたばこを吸っていた。そして、ズリーン時代のものを何か感じ取ることができたかい、とわたしに訊ねた。

 でも、わたしが生まれたのは一九四八年、つまり、祖父が祖国で捏造された罪を問われ、甥や義理の姉がそれに加担し、国外の工場をすべて失うという最大の危機のさなかのことだった。でも、一人っ子だったわたしはいつもあらゆる出来事の近くにいて、おじいさんや両親のところを他の子どもよりも頻繁に行き来していたので、何か耳に入っても、将来ノスタルジアに浸るためだけにブロンドの小さい頭に仕舞っておいた。七歳までわたしが話したのはチェコ語だけ、ポルトガル語もわかってはいたけれど、ちゃんと習得したのは学校に入ってから。父さんとはセルビア語を話した。わたしはその言葉が好きだったけれど、愛し方はチェコ語とは異なっていた。父さんの言葉はより稀で、より核心を突き、時には火花が散ることもあった。でも、父さんはセルビアのことを話そうとはしなかった。だから、わたしはしょっちゅう写真を見ていた。おじいちゃん、おばあちゃんのところには何千枚もあったからだ。いろいろなサイズのアルバムは革装だったり、赤いビロードだったり、緑の布地だったりして、けっしてそこらへんにあるものではなかった。細かくメモ書きされ、体系的に分類された聖遺物、断片で作られた想い出、ズリーンだらけのアルバム。わたしは建築計画の詳細も知っていたし、そればかりか、おじいさんが建設を主導し、ブラジルまで送付してもらい、さらにメモやスケッチを付していた戦後のズリーンの計画案も見ていた。子どもの頃のわたしにとって、ズリーンはおとぎ話の町、わたしたちの手から奪われ、けっして忘れることのできない帝国だった。もし忘れようものなら、すべての人を、なかでもおじいさんを裏切ることになるからだ。おじいさんはわたしの王様だった、偉大で、賢く、忍耐強く、そして傷ついた英雄だった。だから、ズリーンを訪問したことはそれまで一度もなかったにもかかわらず、比較はできた。肌感覚でわかっていたからだ。でも、今、この安いタバコとビールの匂いが立ち込め、裸の人形がフロントガラスで揺れている汚いタクシーの中で、わたしは失望していた。この町は、これまで思い描いてきたような壮大で、美しく整えられたものではなかった。わたしは疲れを覚えた、まるでおじいさんになったかのようだった。でも、もうすこしあの町にいたいとも思った。小さな部屋かレンガの家を借り、庭に腰かけ、春の日差しを浴びる。近くの丘まで散歩に出かけ、トマーシュとヤン・アントニーンがありとあらゆることをどうやって考え出したのか、考えてみる。あの二人は、どうしてそうしたのか、何をしたのか、それ以前のものになぜ不満だったのか、どうして次から次へと発明したり、運営したり、製造したのか? どうして、じっとせず坐っていることに満足できなかったのか? もしかしたら、わたしの中のブラジル人が想いをめぐらしていたのかもしれない。わたしは母の娘、ヤン・アントニーン・バチャの孫娘であるとはいえ、ブラジルはズリーン同様にわたしのなかに巣を作っていたからだ。口に銀製のスプーンを入れる代わりに、わたしの揺りかごに伸しかかった家族の重みを測定できるのは、無邪気なブラジルだけだった。これがなければ、わたしは発狂していただろう。

 でも、ズリーンでは、父さんのことも考えていた。暗い時代については、まったく話さなかったからだ。ある時、いとこたちと、兵隊さんごっご、パルチザンごっこをしていたら、父さんにひどく怒られたことがある。父さんはパルチザンごっこをしたことはなかった。ドラゴスラフとともに、ほんとうのパルチザンだったからだ。わたしの精神におけるセルビア的要素はほんの断片しか現れなかった。ほんのわずかだけ。母さんも、おばさんも語ってくれることはあったけれど、父さんはけっして心を開くことはなかった。でも、よく話してくれたのは、ラーラのこと。ああ、父さんがするラーラの話は、ほんとうに楽しかった。でも、同じことをチェコ語で話そうとすると、きゅうに楽しくなくなってしまう。セルビア語ではラーラについて父さんに二文言うだけで、みんな、笑い転げるのだった。それは謎を解く鍵、いや、すべての鍵かもしれない? わたしの人生を解く鍵? おじいさんは、できる言語の数で、人間の価値が決まるとつねづね言っていた。マサリク大統領がそう言っていたらしい。では、わたしはどのぐらいの人間なのだろう? 三人分? わたしは、ポルトガル語、セルビア語、そしてチェコ語が話せる人間。いや、スロヴァーツコ方言だけ? それとも、わたしは、国が異なる、断片的な言葉を圧縮して育てられたものなのだろうか。いや、頭のなかにある言葉のグラーシュ・スープに浸かった肉の塊のようなものだろうか?

(c) Markéta Pilátová, 2017.

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